じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 津島東キャンパス(一般教育棟構内)東端にあるポプラ「並木」。厳密には隣接する岡北中の敷地内に生えているようだ。「並木」と書いたが、実際は2本のみ。ちょっぴり、北海道旅行の雰囲気。手前右端はアオギリの花。

2016年07月10日(日)


【思ったこと】
160710(日)トールネケ『関係フレーム理論(RFT)をまなぶ』(65)アナロジー、メタファー、そして自己の体験(1)

 7月8日の続き。今回より第5章に入る。第5章のタイトルは「アナロジー」、「メタファー」、「自己の体験」はいずれも行動分析学の入門書では殆ど触れられることのない対象であり、行動分析学の発展型としての関係フレーム理論を特徴づける内容になっている。

 原書92頁(翻訳書127頁)には、この章の目的が次のように記されている。
My goal here is to establish that there is a scientific consensus of opinion that analogies and metaphors are significant in understanding human language and cognition, and that RFT both contributes to an understanding of these phenomena and shows us how they arise and are influenced.
私のここでの目標は,人間の言語と認知を理解する上でアナロジーとメタファーが意義を持つことについての科学的な意見の一致がある点と,RFT がこれらの現象の理解を助けるとともに,どのようにしてそれらの現象が発生しまた影響を受けるかを示すのに役立つという点を,はっきりと伝えることである。

 続く章では、「恣意的に関係づける」ことと「何らかの類似性(=非恣意的)」が果たす役割について論じられている。研究室の実験では確かに、出来事を恣意的な方法で関係づけられることが示されているが、日常生活では、直接的な随伴性および刺激の形態的属性を通じて確立された関係と、恣意的に適用可能な関係との組合せ、つまり直接的関係と派生的関係との間に起こる相互作用が言語行動に強い影響力を及ぼしていると論じられている。イヌに吠えられたことによる恐怖体験をもつ子どもが、初めて訪問する家に居る猫がまるでイヌのようだと言われたことで、その家を訪ねるのを嫌がったとした場合を例にすれば、前者の恐怖体験はレスポンデント条件づけによる直接的関係であるが、「イヌのようだ」と言われることは「刺激機能の変換」という恣意的に適用可能な関係反応と言える。これらの組合せが特定の回避反応を引き起こす。こうした複合的な影響は、本書の中心的テーマである臨床場面のみならず、政治や社会的プロセス、実存的問題など幅広い分野に及ぶものである。

 この章では主として次の2点の説明を目的としている。
  • 恣意的に適用可能な関係反応は,関係をさらに別な関係と関係づけることができ、それによって、アナロジーやメタファーが創り出されるという事実
  • 恣意的に適用可能は関係はどのようにして自己の経験を創り出すか?


 まず、アナロジーについては以下のように「関係についての関係フレームづけ」として特徴づけられている。
Analogies originate in relational framing - specifically, the relational framing of relations. Relational networks that are already established, and which in themselves usually consist of both arbitrary and nonarbitrary relations, are related. This is not, in principle, anything novel as compared to what I described in chapter 4. If diflferent stimuli or events can be related arbitrarily then relations can also be related arbitrarily, following the same principles.
アナロジーは,関係フレームづけにその起源を持つ − 特に,関係についての関係フレームづけに。既に確立された関係ネットワーク(re1ationaI network)で,一般には恣意的関係と非恣意的的関係の両方によって構成されているようなもの同士が,関係づけられる。原理的には,私が第4章で説明したことと比ぺて何ら新しいことではない。もしも,異なる刺激や出来事が恣意的に関係づけられるなら,関係も,同じ原理に従って,恣意的に関係づけられる。

 具体的には、翻訳書では「トヨタに対するニッサンは,マンゴーに対するパパイヤのようである。」という例が挙げられている。このアナロジーはあくまで日本人向けの意訳であり、原書では、「Volvo is to Saab as nectarines are to peaches. 」となっていた。この意訳の必要性からも示唆されるように、コミュニケーションの中でアナロジーが適確に機能するためには喩えに用いられる対象や関係が、話し手と聞き手の両者において、既知であり、特徴づけが共通して行われていることが必要である。上記の例で言えば、「マンゴーに対するパパイヤ」という関係が単に「似ている」というだけの意味をもつのか、価格や出荷量に差違があることを意味するのか、味や種や用途の違いを意味するのかなどによって、聞き手の解釈も違ってくるだろう。念のため、ズバリ解決!「違いガイド」を参照したところ、以下のような違いがあることが分かった。
  • 「マンゴー」=大きな種が1つ。「パパイヤ」=小さな種がたくさん。
  • 「マンゴー」=1つづつ実る。「パパイヤ」=塊で実る。
  • 「マンゴー」=皮が薄い。「パパイヤ」=皮が厚い。
  • 「マンゴー」より「パパイヤ」が味は淡泊。
  • 「マンゴー」=フルーツ。「パパイヤ」=野菜・主食としても用いられる。
 原書の「ネクタリンと桃」の関係についても同様である。また、一口に「桃」「ネクタリン」と言っても、日本で売られている高級品の桃と、海外で売られている肉質が堅く平べったい形をした桃は区別しておく必要があるだろう。

次回に続く。