じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 秋深まる農学部農場内のコスモスと田んぼ。一昨年の写真が、↓にあり。

2015年10月11日(日)


【思ったこと】
151011(日)『嫌われる勇気』(56)信頼と信用の違い

 昨日の続き。

 最終章(第五夜)のはじめのあたりでは、「他者信頼」に関係して、信頼と信用はどう違うのかが論じられていた。要約引用すると以下のようになる。
  • 「信じる」という言葉を、信用と信頼に区別して考える。【231頁】
  • 「信用」は条件つきの話。英語でいうところのクレジット。銀行の融資など。【231頁】
  • アドラー心理学では、対人関係の基礎は「信用」ではなく「信頼」によって成立していると考える。【231頁】
  • 他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないこと。【231頁】
  • 仮に裏切られてても信頼し続ける。【231頁】
  • 信頼の対義語は「懐疑」である。【232頁】
  • 相手に裏切られるかどうかというのは、他者の課題。相手が裏切らないことを前提とするのは信用。【233頁】
  • 信頼することを怖れていたら、結局は横の関係を築くことができない。【235頁】

 ここまでのところで私の感想を述べさせていただく。まず辞書的な区別は以下のようになっていた。
  • 信頼:
    • 【新明解】その人やものが、疑う余地なくいざという時に頼る(判断の拠りどころとする)ことができると信じて、全面的に依存しようとする気持をいだくこと。また、その気持。
    • 【大辞泉】信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。
  • 信用:
    • 【新明解】誤り(うそやごまかし)がないと信じて、その人の言をそのまま受け入れたり事の処理をすべて任せたりしようとする気持をいだくこと
    • 【大辞泉】
      1 確かなものと信じて受け入れること。「相手の言葉を―する」
      2 それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること。また、世間が与える、そのような評価。

 いずれにせよ、信頼には「頼る」という意味が含まれているようだが、『嫌われる勇気』の中では、どう頼るかについては直接は論じられていない。おそらく、他者に頼るよりは他者貢献の気持ちを重視しているためであろう。

 次に、心理尺度でよく言われる「信頼性」とも、あまり関係が無さそうである。「信頼性」というのは、秤を例にとれば、何回測っても同じ値をとるというような意味。対人関係で言えば、態度が一貫している人は信頼性が高いということになる。一貫して嘘をつく人や、あらゆる事柄について一貫して頼りにならない人も、定義上は信頼性が高いということになるが、『嫌われる勇気』では、そのような意味には使われていない。

 とにもかくにも、私自身は他者と関わることを最小限度にとどめたいと思っているので、相手が信頼できる人であっても信頼できない人であっても、そのことによって態度を変えることはない。時と場合によって、信頼できる時もあれば信頼できない時もあり、それ以上でもそれ以下でもないと考えている。そういう意味では、「いっさいの条件をつけないで相手を信頼する」という以前に、そこまで関わる必要は無いのではと考えてしまう。

 もちろん、世の中で生きていくためには、他者への信頼が不可欠という場合もある。飛行機に乗っている時はパイロットを信頼するほかはないし、手術を受ける時は医者を信頼するほかはない。レストランで食事をする時にも、この料理は安全であると信頼するほかはない。但しそれらは、消極的な意味での「信頼」、上掲の言葉で言えば「いちいち懐疑的にならない」という程度の「信頼」に過ぎない。

 けっきょく、人という単位で信頼するかどうかではなく、その人が行う個々の行動について、状況や文脈を斟酌したうえで信頼することになる。となれば、あくまで条件をつけての「信頼」なので、上掲の趣旨には反することになる。

 ちなみに、ペット好きの中には、人間よりもペットを信頼しているという人たちもいる。園芸好きの中には、人間よりも植物を信頼しているという人たちもいるだろう。私自身も、動物や植物、あらゆる自然現象については、かなりの程度で信頼している。というか、それらを相手に条件をつけても意味はない。自分がいずれ死ぬということも自然現象として捉えれば別段じたばたするものではなかろうと思う。

不定期ながら、次回に続く。