じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 岡大図書館の改修工事が終わり、4月から「ヒヨセルーム」と「サルトフロレスタ〜飛翔の森〜」がオープンした。写真上が「ヒヨセルーム」、写真下2枚が「サルトフロレスタ」。こちらに案内あり。 「ヒヨセルーム」は、「備前焼の原料で、備前市伊部の田圃から採れる土、「ひよせ(干寄)」から」名付けたとのこと。「サルトフロレスタ」の由来は不明だが、私のパソコンでは「猿と風呂レス多」と変換されてしまう。

2015年06月16日(火)


【思ったこと】
150616(火)NHK 100分 de 名著43「荘子」(8) 「遊」

 6月12日の続き。

 放送第3回ではまず、「受け身こそ究極の主体性」に関連して、タモリさんの話題が取り上げられた。伊集院光さんが2回目の収録後に帰ってからに考えたところによれば、タモリさんは主体的な司会者ではなく、たまたま行ったところにたまたま面白いものがあった、それを受け入れながら主体になっていくという話であった。確かにNHK「ブラタモリ」などを視ていると、指摘されたようなタモリさんの特長がよく出ているように思う。

 司会者と言えば、私の世代では野球は巨人、司会は巨泉の大橋巨泉さんが有名であり、タモリさんを呼び捨てにすることでも知られていたが、こちらのほうは主体性という点ではタモリさんとは対極をなしており、あらゆる面において自己主張されていた。現在、御闘病中ということだが、御快復をお祈りしたい。

 余談だが、この番組は放送としては毎週1回、全4回から構成されているが、私は、わざわざ25分ずつ別の日に収録するのは大変だろうから、すべて1日で収録してしまうのではないかと思っていた。しかし、伊集院さんが「家に帰ってから考えた」と言われたことで、念のため1回から4回の服装を比較したところ、確かに、伊集院さんも武内陶子さんもすべて異なる服を着ていることが分かった。【指南役の玄侑宗久先生もお坊さんの服ではあるが、内側の色が黒っぽい時と薄い色の時があった。】

 さて、ここからが本題に入るが、第3回の最初のところでは「遊」の意味について、漢文学者・白川静先生の言葉が引用され、「神と人が一体になった境地」、「人間的な思惑や分別を超えた世界。子どもが砂場で遊んでいるようなもので、目的もないし、代わってやることもできないような状態」というように説かれた。

 そのあとで言及されたのが、庖丁(ほうてい)の牛の解体の話題【内編・養生主】。庖丁が求めているのは、ワザではなく道であるという。自然の摂理に従い、目的意識を離れて、虚心に相手(対象)に向かう。

 またこれに関連して「無意識になる」というのは、反復練習で「身に付く」ことで、無意識であることが「遊」につながる、「無意識の方がよく知っている」、「意識的であると臭味が残る。本当に茶人や学者になると、よく濯ぎができた状態で、茶人臭や学者臭が消える」と解説された。

 ここからは私の考えを述べるが、まず「遊」に関しては6月11日にも書いた通りで、人間は時間と空間に縛られない世界に「遊ぶ」ことはできない。けっきょく、番組内容を追従することになるが、「遊」も「自由」も、一定の場や文脈の中で、それを受け入れることによってしか実現できないと思う。

 もっとも、番組で「受け身こそ」と言われている部分については、レスポンデント的な対処と、オペラント的な対処に分けて考えるべきだとは思う。後者については一定の能動的な対処が可能である。人間は、特定の行動随伴性の文脈の中では、強化の原理に従って行動することしかできないが、よりマクロな視点から、行動が強化される場を選んだり、いくつかの行動随伴性をニーズに応じて複合調整することができる。例えば、「徒歩で通勤する」という行動は、直接的には、徒歩に好子が随伴することで強化されるが、地球温暖化防止のために歩く人と、自分の健康増進のために歩く人では、同時に強化される行動のセットが変わってくる。前者であれば、省エネ、リサイクルなどの行動と連動して強化される。後者であれば、食事の量やバランスの調整、禁煙などと連動して強化される。もちろん、どんなにマクロな視点に立っても、そのマクロな時間と空間の枠組みの外に出ることはできない。これは孫悟空が地の果てまで飛んでいったつもりになっても観音様の手のひらから逃れられなかったようなものである。そのことをふまえた上であるなら、身の丈に合った能動的なふるまいを実現することは決した不可能ではない。

 もう1つの、庖丁(ほうてい)の話であるが、私は、「無意識」と「意識的」の違いはあまり重要視していない。「意識的に振る舞う」というのは、自分の行動をモニターし、ときおりそれを言語化し、記述した内容を弁別刺激として利用しながら行動を進めていくことである。これに対して、無意識に振る舞うというというのは、モニタリングや言語化のプロセスが省略され、一連の行動が連鎖上に生起していくことである。自転車乗りでも、スキーやスケートでもみな同じだが、初心者は、自分の行動をモニターし、言語化して、上達を目ざしていくが、上手になってくると、知らず知らずにちゃんと進むことができるようになる。また、いずれの行動の場合も、力学の法則から逃れることはできないので、結果的に自然の摂理に従うことになる。

不定期ながら次回に続く。