じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



06月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

 工学部南にある防火用貯水池の1日。注目する人は殆どいないが、スイレンの花が咲き始め、また、水鳥が泳いでいる時もある。

2015年06月12日(金)


【思ったこと】
150612(金)NHK 100分 de 名著43「荘子」(7)妻が死んだ時、盆を叩いて歌うか?

 昨日に続いて、主体性の話題。

 放送第2回の終わりのほうで、荘子のいう主体性とは「状況に任せきれることの強さ」であると説かれた。

 またこれに関連して、荘子が妻を亡くした時に、盆を叩いて歌ったというエピソードが紹介された。ネットで調べたところ、この話は、外篇・ 至楽(しらく)からの引用であった。
莊子妻死,惠子弔之,莊子則方箕踞鼓盆而歌。惠子曰:「與人居長子,老身死,不哭亦足矣,又鼓盆而歌,不亦甚乎!」莊子曰:「不然。是其始死也,我獨何能無概然!察其始而本無生,非徒無生也,而本無形,非徒無形也,而本無氣。雜乎芒■之間,變而有氣,氣變而有形,形變而有生,今又變而之死,是相與為春秋冬夏四時行也。人且偃然寢於巨室,而我◆◆然隨而哭之,自以為不通乎命,故止也。
莊子の妻死して、惠子之を弔う、莊子則ち方(まさ)に箕踞し盆を鼓し而して歌う。惠子曰はく“人と與(とも)に居りて子を長ぜしめ,身老ひしめ死す,哭せざるは亦足れり,又た盆を鼓して歌ふは,亦甚だしからずや!”莊子曰はく:“然らず。是れ其の始めて死するや,我獨り何ぞ能く概然なからんや!其の始めを察するに本より生無く, 徒だに生無きのみに非ずして、本より形無し, 徒だに形無きのみに非ずして、本より氣無し。芒■(ばうこつ)の間に雜(まじは)りて,變じて氣有り,氣變じて形有り,形變じて生有り,今又、變じて死に之くのみ。是れ相(あい)與(とも)に春夏秋冬の四時の行(かう)を爲すなり。人且に偃然として巨室に寢ねんとするに、而も我、◆◆(きょうきょう)然として、随ひて之を哭するは、自ら以て命に通ぜずと爲す。故に止めたるなり。」と
■:くさかんむりに「勿」、◆:激のさんずいをくちへんに。
 私自身は、万が一、妻に先立たれたとしても、盆を叩いて歌うことはあり得ないが、自分の力ではどうにもできないような状況においては、無理に逆らわず、また嘆いたりもせず、淡々とそれを受け入れる姿勢は大切であろうとは思う。

 もっとも、これはあくまで、真にどうにもならないことである。具体的には、
  • 自分自身の老い、そして死
  • 周囲の人間の死
  • すでに起こってしまったこと
などなど、長期的なspanの出来事に限られる。これに対して、
  • 日常生活全般
  • 健康管理や健康寿命を延ばすための努力
  • 事故や感染症の防止
といった、より短期的なspanでは、かなりの程度まで能動的な対処が可能であり、それを放棄するつもりはない。例えば、私の目の前に蚊が飛んできたらパチンと叩くか、殺虫剤をプシュッとかける。病気の症状があれば病院に行く。1日1万歩以上のウォーキングにつとめたり、食べ過ぎに気をつけるなどして、健康寿命を延ばすためにできるだけのことはするだろう。

 もちろんどんなに努力しても、長期的なspanでの結末は変わらないが、多少なりとも行動機会を増やし、積み重ねによって初めて達成できるような課題に挑戦し、より大きな成果を獲得することはできる。人生は結末がすべてではなく、途中のプロセスこそに価値があると考る限りにおいては、そうした努力は決してムダではない。

不定期ながら次回に続く。