じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 1月7日(水)朝の岡山は、最低気温が0.0℃まで下がり、農学部農場のネギ畑には一面に霜が降りていた。なお、気象庁統計によれば、岡山で最低気温が氷点下になったのは、12月の28日〜30日の3日間のみであり、1月に入ってからはこれまでのところ0.0℃以上となっている。昨年の1月は、氷点下になった日が17回もあったが今年は、これまでのところは幾分暖かい日が続いている。


2014年1月8日(水)

【思ったこと】
140108(水)100分 de 幸福論(4)「アダム・スミス問題」と「共感」の限界

 昨日の続き。

 経済学部門では、アダム・スミスが共感(『道徳感情論』)を前提として「諸国民の富の性質と原因の研究」を論じていることが強調された。この「共感」に関しては、アダム・スミス問題というのがある。こちらのサイトでは以下のように解説されている。
『道徳感情論』においては共感を社会行動の基礎においたはずの アダム・スミスが、 『国富論』においてはたとえば 「われわれの食事は肉屋や酒屋やパン屋の善意からもたらされるのではなく、彼らの自己利益に対する関心からもたらされる」 と述べ、 あたかも利他的な理論から利己的な理論に180度転回してしまったように思われるが、 これをどう説明すべきなのか、という問題。 19世紀中頃に主にドイツの経済学者によって指摘された。
 これに関してはおびただしい議論があるが、例えば、こちらのサイトでは、
...【略】...
 だが、これは『道徳感情論』における「同感」を誤解したものに過ぎない。スミスの「同感」は、特別な利害・感情関係のない個人どうしの間で成り立ち得る是認の感情を指すものであり、利己的経済行為を否定するものではない。

 『道徳感情論』で追求したのは、人々が対等かつ自由に振る舞い、誰もが自分の利益を追求しているみなされるような社会での秩序形成の可能性である。
 スミスによれば、こうした社会における秩序を支えるのは、情動的な一体感ではなく、行為者それぞれの立場に仮に我が身をおいて考えることによって生ずる「同感」である。ゆえに、対象となる行為は、金儲けのための行動であってもかまわない。利己心と、ひとしく利己心を持った他人に対する同感が基本原理におかれているのである。

 しかし、他人を傷つけたり、公平さに反する手段を取るような行為に対しては、人々は「同感」しないであろう。したがって、社会生活のなかで、人々は次第に、自分の利己的行為を、公平な他人の目からみて是認されうる範囲内に抑えるというのである。

 スミスが道徳の基礎に理性ではなく感情を置いたのも、あるいは市場社会の構成原理として利己心や自愛心を考えたのも、突き詰めれば、人間は全知全能ではないという基本的認識があったからである。ここに19世紀以降の新古典派経済学が人間を全知全能の経済人と規定するところと、まったく違った視点がある。スミスは、個々の人間が所得や富の増大という目的のためだけに行動するような「合理的」な存在だとは考えていなかった。そして、彼は極端なレッセ・フェールを唱える政治的アナーキズムとは無縁な思想家である。自己利益の追求は、闇雲になされてもよいということではなくて、「正義のルールを侵さない範囲で」という前提となる条件があるのである。
と論じられている。

 また、昨日もリンクさせていただいた、こちらの論文では
...共感の機能自体は、情念・情緒・情動の性質がいかに相違していようとも、中立的である。だからあらゆる種類の感情が、共感の対象となることができるのである。
 このように考えるなら共感は、利他的情念の一種であって、利己的な情念---例えば自利心(これは『国富論」における基本原理とされた)---と対立するように見倣されることはできないのである。このスミスの共感に対する誤解が、かつて「アダム・スミス問題を引き起こしたのであるが、彼の共感の機能を上述のように解釈することによってこの問題は理論的に、容易に解決できるのである。
というように論じられている。

 「アダム・スミス問題」を心理学や行動分析学がどう捉えるのかという議論はあまりにも脱線してしまうので別の機会にまわすが、とにかく、今の世の中においてもグローバルな「共感」がきっちりと機能していれば、格差社会のひずみは是正されることは確かだろう。しかし、番組出演者が指摘しているように、今の社会でどうやったら共感が成立するのかは、難しい。いまの経済の仕組みの中では、いくら「共感なき者は我が身の破滅を呼び込む」と呼びかけたとしても、経済的にゆとりのある人の、おこぼれ程度の慈善活動に頼る程度に終わってしまう可能性が高いのではないか。

 経済学部門の最後のところで述べられた、浜矩子氏の「幸せとは、ひとの痛みがわかること」という定義は、黄金律、 Golden Rule)に通じるところがあるように思われた。
  • イエス・キリスト「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(『マタイによる福音書』7章12節)
  • 孔子「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(『論語』巻第八衛霊公第十五 二十四)
  • ユダヤ教「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」(ダビデの末裔を称したファリサイ派のラビ、ヒルレルの言葉)、「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」(『トビト記』4章15節)
  • ヒンドゥー教「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(『マハーバーラタ』5:15:17)
  • イスラム教「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」(ムハンマドの遺言)

 しかし、古今東西の宗教や思想家がこぞって強調し続けてきたにもかかわらず、現実社会では、暴力や犯罪やテロは無くならず、かつ、内戦や戦争状態になれば、敵国の兵士を平気で殺したりする。けっきょく、一部の博愛主義者や平和活動家以外の人々にとっては、「人の痛み」が分かる範囲は、身内、コミュニティ、組織、あるいは民族や国家の内側に限られているように思える。

 いずれにせよ、世の中が悪いのは共感が欠如しているためだというだけではなんの改革にもならない。人間はデフォルトで共感を備えていると考えるよりも、すべての人々が共感を身につけるためにはどういう経験、学習、環境が必要なのかを検討していくほうが遙かに生産的・建設的であろう。

次回に続く。