じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 2013年度版岡山大学構内の紅葉(12)時計台横のカイノキの紅葉終盤と、耐震改修工事中の「四角い穴」から眺める半田山の紅葉
 図書館横のカイノキの紅葉はいよいよ終盤となり、向かって左側(西側)のカイノキのほうも真っ赤に色づくようになった。また、耐震工事のため、図書館の建物の一部が完全にくりぬかれており、その四角い穴越しに半田山の紅葉が見えている。穴越しの紅葉は今年限りの希有な風景である。


2013年11月28日(木)

【思ったこと】
131128(木)個人主義的人生の必要条件(3)

 昨日の日記で、「いまの高齢者世代では、自分一人のためだけの個人主義的生き方よりも、家族のため、会社のために頑張ってきた人が少なくない。...これから先は、個人主義者になりなさい、御自身の楽しみを追求しなさいと勧めても、そんなに簡単に価値観を変えることはできない。」と述べた。また、その対応策の1つとして、
若い時は世のため、人のために日夜頑張ってこられたのだから、ここらでそろそろ、今までできなかった個人的な楽しみに興じていただいてもよいのでは?
→人生は社会奉仕期間(若い時)と個人主義期間(定年退職後)から構成されるものだと見なし、両期間のバランスをとることが望ましいという考え方
が考えられると述べた。

 しかし、上掲の対応策は、若い時は世のために「苦労」し、歳をとったら「楽」をすることを暗黙の前提としている。要するに、若い時の苦労は義務的なもので、もし宝くじが当たって何億円も手に入ったら、どんなに若くてもさっさと隠居して「楽」な生活にふけることを理想としているようなものである。もっともそういう考えで働いてきた人たちであれば、わざわざ説得しなくても、自分から遊び出すに違いない。

 いっぽう上掲の対応策では納得して貰えない高齢者もおられる。そういう方達は、どんなに苦労しても、世のために尽くすことこそが価値のある生き方だと考えている。残り少ない人生もできる限り有効に使いたい。「楽をする」などと称して、一日中リラックスチェアでテレビを視ながら過ごすなどというのは、時間のムダにすぎない。施設内でのいろいろなイベントも、その成果が世間に還元されないのならムダ遣いにすぎない。...というように考えておられるのではないかと拝察される。

 このほか、世のため人のための変形として、宗教活動がある。特定の信仰を持つ人々は、念仏やお題目、五体投地のお祈りをすることなどが世のため人のためになると信じ切っている。信仰を持たない立場から見れば、その人が仏像の前で何万回お経を読んでも世の中には何の影響も与えず、全くの時間のムダのように見えてしまうが、当人はそれをすることに最高の価値を置き、その成果を信じて続けているわけだから文句は言えまい。

 昨年度、いろいろなタイプの高齢者施設を見学する機会があったが、そこで行われている各種イベントは、基本的に個人の楽しみを増やす目的となっていて、世のため人のためといった発想はなかったように思われた。園芸療法を取り入れた施設などでは、収穫した野菜や綺麗に咲いた花を家に持ち帰って喜んで貰うという話もあったが、これも、御自身で園芸活動を楽しむことが基本であって、別段、社会のために生産活動をしているわけではなかった。

 また、公的な補助を受けている高齢者施設においては、通常、施設内での営利行為、宗教活動、政治活動は禁止されている。せいぜい、生活慣習上の行事として、お祭り、お盆行事、クリスマスなどがちゃんぽんに実施されているだけである。もっとも、宗教法人で運営している施設の場合には、その宗教団体の教えに沿った終末期ケアが行われていると聞く。また、有料老人ホームなどでは、布教活動をする人が至り、異なる宗教間での対立も皆無とは言えず、入居前にそのあたりのことをきっちり調べておく必要があると言われている。

 ということで、個人主義的な楽しみより「世のため人のため」を重視する価値観を持っているお年寄り向けには、もっと、社会奉仕中心のアクティビティを重視した施設を作ってもいいように思う。また、施設内で宗教活動を禁止するよりは、最初から「この施設は○○宗(○○教)の教えに基づいて終末ケアを行います」という方針を明示して入居者を募集するような施設が多種多様にあってもいいようには思う。もちろんそのいっぽう、徹頭徹尾、個人主義者に配慮するような施設があってもよく、もしあれば、私自身はそっちのほうを選ぶことになりそうだ。

不定期で次回に続く。