じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 先週の台風26号に続いて台風27号が日本に接近している。
 この台風は、10月22日頃までは、東海地方に上陸するかもしれないと予想されていたが、その後、上陸の可能性は低く、台風の中心は八丈島のあたりを北東に進む可能性が高いというように修正された。

 10月14日の日記で、このところ、アメリカ・ハワイの米軍合同台風警報センター(JTWC)の予想進路が的中していると書いたところであったが、今回も、台風の進路が南にそれるという予想は、気象庁よりも米軍のほうから早く出されていた。画像中段左の気象庁10月22日18時予想と、画像中段右の米軍10月22日午前09時(世界時00時)の予想を比較されたい。

 米軍のほうが偏西風の状況をいち早く察知しており、日本の南で台風が偏西風に乗って右に急カーブすると予想したのではないかと思われる。

 なお、台風の中心は南に逸れるとしても、その北側には秋雨前線が停滞しており、10月24日07時現在、西日本では九州から山陰に至るまで広範囲に強い雨が降っている。台風の中心がどこを通ろうとも、万全の警戒が必要であろう。


2013年10月23日(水)

【思ったこと】
131023(水)高齢者における選択のパラドックス〜「選択の技術」は高齢者にも通用するか?(38)選択を階層的に捉える(8)「選択機会」自体の価値(2)

 昨日の日記の後半で、「選択機会」自体の価値と、好みの実現との分離という話題を取り上げた。これは、簡単に言えば、同一品質のにぎり寿司を回転寿司として選ぶのか、「にぎり寿司定食」として一方的に提供されるかの違いである。同じ味であっても、回転寿司のように自由に選べる機会のあるほうが満足度が高いとすれば、「選択機会」を設定すること自体に価値があると判断される。

 もっとも、「選択機会」自体に価値があるかどうかは、個々人にもよるし、ある条件では価値があり、ある条件ではあまり価値が無い、というように一律ではない。選択機会に関する普遍的な原理を見出そうとするのではなく、「選択機会自体」はどういう条件で価値を有するか、また、どう工夫すれば、価値を高めることができるのかというように、効果の及ぶ範囲とその効果が生じる条件を検討する「生起条件探索型」で問題を立てるべきではないかと思う。

 まず、上掲のにぎり寿司の選択のように、ある程度の好みの違いがあり、かつ、ある程度選択肢に精通している場合は、当事者に自由な選択を委ねることはそれ自体価値があるだろう。何度か取り上げた例で言えば、国際線の機内食で、「Beef or Chicken?」(牛肉料理と鶏肉料理のどちらがいいですか?)と尋ねることは、1種類だけを一方的に提供されるよりも喜ばれるに違いない。この場合、もともと牛肉料理のほうが好きな人であっても、一方的に牛肉を提供されるよりは、牛肉料理と鶏肉料理のどちらがいいですかと訊かれた上で牛肉を選んで食べたときのほうが満足度は高いかもしれない。また、もちろん、人の食べ物の選択は、一貫した好みだけで決まるものではなく、その時々の確立操作、つまり、前日に何を食べたか、食欲があるかないかなどによっても大きく変動するので、自由選択機会には、そうした変動にマッチした選択を可能にするという利点がある。

 いっぽう、同じ食事場面であっても、どんな料理か全く分からなければ、選びようがない。見たこともない料理ばかりが並んでいるような時は、自分で選ぶよりも、料理に詳しい人のオススメを頂戴したほうが満足できるだろう。

 このほか、日本人高齢者の場合はこれに加えて、自己主張するよりも他者からの提案に同意することを美徳とする傾向があり、少なくとも表向きは、自分で選ぶことを辞退する可能性がある。以前、文化心理学のペン選択実験【こちらの論文参照】で言及したことがあったが、2種類の色合計5本のボールペンのうちの1本を貰えるというような場面においても、これがいいかも、あれがいいかもと迷うのは、利己的で卑しい態度であるとして避けられるのかもしれない。「お好きな1本をどうぞ」に対しては「どれでもいいですよ、あなたが選んでください」というのは、決して「そんなことどうでもいい、くだらない」という意味ではなく、ボールペンのお礼なんて要りませんよ(お礼が欲しいから協力したわけではありませんよ)という態度から発せられる可能性が高い。

 さらに、委ねられた選択が責任を伴うような場合は、委ねられること自体が好まれない可能性がある。組織の将来に関わるような選択について意見を求められた場合、自分の意向が尊重されることを喜ぶ人もいれば、責任を押しつけられては困るという人もいるだろう。

 次回に続く。