じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 岡山では8月30日から9月4日まで、6日間連続で雨が降っている。9月1日から3日までの合計雨量は107.5ミリで、9月4日の雨量を合わせるとどうやら9月の1ヶ月分の平年値134.4ミリを越えそうな気配となってきた。写真は、長雨で水没した、座主川沿いの遊歩道。自転車でこの道を通ることが多いのだが、こうなってしまうと、別の道を通るほかはない。

 さて、9月4日6時現在、岡山県内の大部分の地域に大雨警報が発表されている。この雨の中で、少々疑問に思ったのが、岡山県内各地域の大雨警報の発令の有無である。テレビのテロップでは、岡山市の周辺地域ですべて大雨警報が出ているのに、岡山市だけは注意報レベルにとどまっていることが多いような気がした。さっそく、警報・注意報発表基準一覧表から岡山県内の大雨警報発表基準を閲覧したところ、
  • 岡山市:平坦地:1時間雨量50mm/平坦地以外:3時間雨量100mm
  • 倉敷市:平坦地:3時間雨量80mm/平坦地以外:1時間雨量50mm
  • 玉野市:平坦地:3時間雨量80mm/平坦地以外:3時間雨量90mm
  • 高梁市:1時間雨量50mm
  • 赤磐市:1時間雨量50mm
となっていて、発表地域によりかなり基準が異なっていることが分かった。例えば、今後3時間の雨量が90ミリに達すると予想される場合は、倉敷市や玉野市では基準を満たすので発表される可能性が高いが、岡山市(平坦地以外)では基準の100ミリを下回るので警報にならない可能性がある。岡山県内で岡山市だけが警報が出にくいように感じるのはそのせいかもしれない。

 もう1つ疑問なのは、岡山市と、倉敷市で、平坦地と平坦地以外の時間雨量のスパンが異なっていることである。平坦地に関して、岡山市では1時間雨量を基準にしているのに、倉敷市では3時間雨量が基準となっている。両市は地理的にも隣合っているし、地形や地質や気象条件に差があるとも思えないのに、なぜこのような違いがあるのか謎である。自分で調べるのも面倒なので、さっそく、金だイチ!に調査を依頼してみた。


2013年09月03日(火)

【思ったこと】
130903(火)高齢者における選択のパラドックス〜「選択の技術」は高齢者にも通用するか?(8)選択と後悔(2)なぜ後悔するのか?(2)

 昨日に続いて、「なぜ後悔するのか?」についての考察。

 「後悔」は我々の大きな関心事であるが、「なぜ後悔するのか?」については諸説があり、かつ、すべての人を納得させるような解答を示している研究は今のところ無いように思う。

 じっさい、ネットで「なぜ後悔するのか」というキーワードで検索をかけてみると、上位3件は、
  1. ひとはなぜ後悔するのか 「後悔」とは何か? - 大阪大学 社会経済研究所(Adobe PDF)
  2. Amazon.co.jp: なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴 ...
  3. Amazon.co.jp: 新装版 なぜ選ぶたびに後悔するのか オプション過剰時代の賢い選択術
となった。このうち1.は池田新介先生の講演ファイルのようだが、副題は「ー時間割引率の行動経済学ー」となっていて、主として、「最初に立てた計画が後になって最適でなくなる」という. 時間非整合性」の問題が論じられていた。その次の2.と3.は、この連載で取り上げている、

Schwartz,B.(2004).The paradox of choice: Why more is less. New York: Harper Perennial.【ペーパーバック版】

の翻訳書であった【但し、まことに残念なことに、この翻訳書の出版社は2012年に倒産してしまい、現在でも入手できるかどうかは不明】。

 もちろん、「なぜ後悔するのか」という原因が解明できなかったとしても、「後悔する」という現象があることを前提として、後悔しなくて済む経験則を並べることは不可能ではない。これは、猛暑の原因が分からなくても、猛暑をしのぐ対策を示すことができるのと同様である。とはいえ、できる限り原因にせまっておいたほうが、本質的な解決につながることは確かであろう。




 さて、最近、私は、「後悔する」を(オペラント)行動とみなすことは間違いであると考えるようになってきた。要するに、後悔というのは嫌悪的な事象に対する情動的な反応なのであって、レスポンデント的な行動である。われわれがオペラントとして行っているのは、後悔の対象となる事象(過去の出来事)を思い出す機会を用意したり、別の可能性や他者と比較したりする行動であり、その行動がネガティブな情動を引き起こしているにすぎない。ここでは仮にそれらを「後悔事象取り出し行動」と呼ぶことにする。例えば、大学入試に失敗した人の場合、その大学の門の前を通ったり、友人と入試の話をしたり、将来の進路について語り合うことは、その人の関心空間に後悔事象を提示する(=取り出す)行動となりうる。反面、スポーツ観戦をしたり、第二志望ながら入学できた大学の魅力について語り合うことは、後悔事象への接近を遠ざけることになる。

 ここで問題となるのは、
  1. 嫌悪的事象が随伴するにもかかわらず、なぜ「後悔事象取り出し行動」はなぜ弱化されないのか?
  2. 「後悔事象取り出し行動」が無ければ、後悔は起こらなくなるのか?
という2点である。
 このうち1.については、おそらく、弱化や消去(そのような事象が取り出されても何も感じなくなる)は起こっており、「後悔事象取り出し行動」の頻度は低頻度になっていくものと思う。しかし、低頻度になってもゼロで無い限りは、それが生じた時にレスポンデント的な情動反応が生じてしまう。それがかなり苦痛であるために、後悔はなかなか消えないと感じてしまうのであろう。
 また2.に関しては、良いことも悪いことも、過去の出来事は他のいろいろな事象と関連づけられているので、単一の「取り出し行動」の出現がゼロになっても、他の事象から芋づる式に蘇ってくることはありうるので、完全に記憶を失わない限りは、後悔をゼロにすることは難しいと思う。

 次に問題となるのは、
  • 後悔事象はなぜ嫌悪的なのか?
  • 「してしまったことへの後悔」や「しなかったことについての後悔」は、受身的にふりかかる事象に比べてなぜ、より強い嫌悪事象になるのか?
という点である。

次回に続く。