じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 一般教育棟構内(津島東キャンパス)、学生会館北側の大規模環境整備工事が本格化している。生協の自販機コーナーや、アドミッションセンター側の自転車置き場は完全に撤去され、土が掘り返されていた。


2013年08月28日(水)

【思ったこと】
130828(水)高齢者における選択のパラドックス〜「選択の技術」は高齢者にも通用するか?(6)高齢者にとっての「幸せ」の定義

 昨日の日記で、アイエンガー先生の講義の受講生による「幸せの定義」をいくつか引用した。「→」印以下は、学生が発言したあとの、アイエンガー先生によるショートコメント。
  1. 基本的なニーズが満たされていること。加えて、不満に思うようなことが無いこと。→快適だったらそれでいいのか?
  2. 他を思い煩わず、自分の状態に満足していること。→平和で満ち足りていて、足りないモノは何もなく、何も欲しいと思わない状態。
  3. 快適さは重要であり、ストレスを感じない、何も心配の無い状態であること。→試験が無ければ幸せ。理想のホテルに招待したら満足か? 自由と引き替えになると望まない?
  4. 人生はいいことと、悪いことがあったほうがいい。いいことの多いほうがいい。
  5. 自分が人間として成長したのを感じた時、つまり、以前より進歩した時、よりよい自分になれた時→つまり、成長できること。
  6. 自己調節的なもの。自分自身の内的世界と外的現実とをある程度までコントロールし、それを認識することが大事。外的な事実に振り回されないこと。→自分の環境をコントロールし、影響を及ぼし、自分で決定すること
  7. 目的意識。自分が求めるものを探している時。たとえまだ手に入っていなくても、自分の向かう先を知っていれば幸せ→なんであれ、人生に目的を持つこと。
 昨日も述べたように、アイエンガー先生の5回シリーズの講義は、コロンビア大学での正式な授業ではなく、どうやら、NHKで放送するためにボランティアの学生を集めて特別に開講されたように見受けられる。であるからして、学生の発言も、ある程度、シナリオに基づいて「演じられた」可能性もある。とはいえ、上掲の「幸せの定義」は、いずれも先進国の個人重視の論議の中ではしばしば耳にするような定義であり、大いに検討に値するとは思う。

 しかし、問題は、それらを高齢者に適用できるかという点にある。高齢になればなるほど、健康の問題を抱えるようになり、行動範囲は狭まり、選択機会も減少する。よって、いくら望んだとしても、「基本的なニーズが満たされていること。加えて、不満に思うようなことが無いこと。」とか「他を思い煩わず、自分の状態に満足していること。」、「快適さは重要であり、ストレスを感じない、何も心配の無い状態であること。」といった状態を保つことはできない。また、何か新しいことでも習うならともかく、老化による衰退をくい止めることは困難であり、自分が人間として成長したのを感じた時、つまり、以前より進歩した時、よりよい自分になれた時とか「目的意識。自分が求めるものを探している時。たとえまだ手に入っていなくても、自分の向かう先を知っていれば幸せ」とか言っても、老い先短い中で成長や目的達成をはかることには限界がある。さらに、要介護の身となれば、「自分自身の内的世界と外的現実とをある程度までコントロールし、それを認識することが大事。外的な事実に振り回されないこと。」も難しくなっていくだろう。

 ではどうすればよいのか。まず大枠として次の3つの対応策が考えられる。
  1. 何らかの宗教に依拠し、若者とは質的に異なるスタイルの幸福を新たに定義する。
  2. (宗教には依拠せず)老いを生物の必然として受け入れた上で、若者とは質的に異なるスタイルの幸福を新たに定義する。
  3. 「幸福の定義」自体は若者とは質的には同一。但し、老いを受けいれた上で、その現実に応じて、可能な範囲の中で、最善の楽しみを見出す。
 もっとも、私自身は神社やお寺にお参りする程度で、ふだんは宗教とは全く無縁の日常生活を送っているため、上記の1.については全く関心が無いし、何かを提案することもできない。ということで、2.か3.のいずれを重視すべきかという議論になってくる。「選択のパラドックス」の問題も、それに応じて変わってくるように思う。


 次回に続く。