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じぶん更新日記

1997年11月28日抜粋
Y.Hasegawa

Web日記「じぶん更新日記」からの抜粋


文中のリンクは執筆当時のものであり、現在では殆どがリンク切れになっていると思われます。

目次



971113(木)
[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(1)
 本日(11/13)のお気軽日記(11/12)や、よろずや談義に紹介されているように、 日本新聞協会は11月10日、「ネットワーク上の著作権について」と題した見解を表明した。この見解では という基本方針が示されており、またその一方で、引用・転載の仕方についての考えは新聞社によってまちまちであることや、利用者の動機や利用形態にも依存することから一般論としての結論は出しにくく、個別に発信元の新聞・通信社に連絡、ご相談をしてほしいとの要望がつけられている。
 この見解は、古川さんによれば、「タイミングよく」出されたと言えるが、よろずやさんの11/13の日記によれば、
「某新聞社の法務に尋ねていた正式な回答が11/10の新聞協会の発表とのメールが某社より.明らかに「スクラップブック」を意識した発表である.
と記されており、何と、私が本年1月以来公開しているスクラップブックが、この声明の発端であった可能性まで示唆されている。日記猿人投票ではせいぜい5票どまりの「日記」がここまで騒がれるとは思わなかったが、よく考えてみれば、毎日毎日、ああいう形で新聞記事の引用を続けている「日記」は、あんまり他には見かけない。日記猿人には、いくつかニュース読み日記系のものが登録されているが、自慢ではないが原則毎日更新と継続性の点から言って、「スクラップブック」が主たる検討対象になったとしても、そう不思議ではないのかもしれない。

 じつは、今回の声明については、私は別ルートで、当日のうちに内容を把握していた。そこで、この発表に記されている「発信元の新聞・通信社に連絡、ご相談をしてほしい」との要望を受けて、発表の翌日、私が主として引用している朝日新聞社あてに、さっそく確認のメイルを送った。もともと、この種の問題には、後述するように一般論はあり得ず、かりに何らかのトラブルが生じたとしても、最終的には著作権者である当該新聞社と利用者である私との協議のなかで解決していく問題であるため、今後の協議の過程ではオフレコにせざるをえない部分も出てくるとは思う。ただ、インターネット上での著作権問題、情報公開の範囲や伝達の問題などが活発に議論されているおりでもあることから、この日記の新しいシリーズ・テーマとして、できる限りその内容を公表し、今後の同種の議論の資料として活用させていただきたいと思っている。
 また、スクラップブックのような取り組みは、日々試行錯誤を重ねながら現在に至ったもので、さらに改良の余地を模索している。数日以内にこの問題についての特設コーナーを設置し、さまざまなご意見を頂戴しようと考えているので、その点でもぜひご協力をお願いしたい。
 さて、きょうは第一回目なので、基本的な点をいくつか指摘しておきたいと思う。

 まず第一に、著作権問題というと、盗作や無断翻案ないし剽窃といった倫理的な問題がすぐ頭に浮かぶ方がおられると思うが、倫理的な問題と、引用や転載に絡む民事上の著作権問題とは明確に異なるということを指摘しておきたいと思う。
 たとえばある詩人が、古代の遺跡の中から偶然に詩集を発見し、その一部を翻訳して自分自身のオリジナルの作品として発表したとする。この場合、元の詩を作った人は氏名不詳であり、本人も親族も現存していないことから、原作者によって著作権侵害で訴えられる可能性はゼロに等しい。しかし、それは倫理的には許されない行為であり、何かのきっかけで事実が明るみに出れば、その詩人の芸術家としての評価は地に墜ちる。同じ事は、学者でも言える。他の学者が書いた論文を、明確な引用をせずに自分の独自の見解であるかのように主張すれば、盗作や剽窃として訴えられる。仮に民事上は解決したとしても、その1回の事件だけで、学者生命は絶たれることになるだろう。
 これに対して、引用や転載に絡む民事上の著作権問題は、盗作や剽窃とは全く別の問題である。引用元が明記されていて、自分の意見と元の記事が明確に区別されている限りは、盗作とは言えない。では何が問題かということになるが、おおむね3つほど理由が考えられると思う。  しかしその一方で、単純な事実伝達以外の情報は何から何まで事前の検閲・許可が必要だということになってくると、我々は緊急の時事問題に対して自由に意見を述べることが難しくなってくる。新聞社などの記事から特定資料集を作成し、これに基づいて体系的に意見を述べるのも困難になってくる。そのあたりをどう考えるか、次回以降に考えを述べることにしたいと思う。

 基本点としてもうひとつ、この「声明」でも述べられているように、引用や転載の許諾の問題は、利用者の動機や利用形態に大きく依存する点に留意しておく必要がある。
たとえば、スクラップブックと同じ内容のものが、コマーシャルのバーナーつきで紹介されたり、有料サイトの情報提供の一環として紹介されたとする。内容が同じであっても営利が目的であるということになれば、許諾の判断は変わってくるだろう。あるいは、経営最優先の新聞社があったとする。その新聞社の記事を引用する「日記」が結果的に新聞の部数拡大に貢献しているならOKするかもしれない。同じ内容でも、他新聞社系列のサイトの中で紹介されることになればOKしないかもしれない。(もっとも、そういう利権がらみで情報伝達の許容範囲が異なってくるとすれば、これもまた問題だろうが)

 このほか、記事内容の緊急性や公共性も大きく影響してくる。大地震や火山噴火についての予知情報や伝染病の予防情報などは、学者のコメント入りの記事を伝えたからといって、まず訴えられることはなかろう。汚職事件、公害問題などの情報伝達も、許諾は寛容になるであろう。いっぽう芸術的な作品に近いものであれば、認めない方向に働くであろう。このあたりも次回以降に論じたいと思っている。

971114(木)
[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(2)
 きょうは、長時間の会議の影響などのため、この日記を書く時間が殆どなくなってしまった。そこで短めに、昨日から開始したシリーズの続きとして、日本新聞協会の「ネットワーク上の著作権について」と題した見解(11/10)についての私個人の受け止め方と、今後の対応方針を述べたいと思う。
 まず、あの「見解」だが、私はあの内容は、新聞社が著作権を主張する際の最大限の範囲を明示したものであると受け止めている。(以下、冗長さを避けるため、区別の必要がない限り単に「見解」と呼ぶことにする)。
 「最大限の範囲」というのは、「そこで主張されていない形で引用を行っても、著作権侵害で抗議や訴訟に進展することは決してありません」という意味である。「見解」から引用すれば、“「だれが、いつ、どこで、どんな死因で、死去した。何歳だった」というだけの死亡記事や、「いつ、どこで、だれの車が、だれそれの車と衝突し、だれそれは重傷」といった簡単な交通事故の記事”を伝える限りにおいては、営利目的その他どういう媒体で伝えようとも、新聞社が著作権侵害で誰かを訴えることは決してないという意味である。
 いっぽう、「最大限の範囲」ということは、そこに指摘された内容を一般論として一律に適用し、例外なく「著作権侵害」で訴えるということではないと考える。もし一律適用であるとすると、昨日も指摘したように、われわれが、緊急の時事問題に対して自由に意見を述べることを難しくする恐れさえあり、ネット上での情報伝達が一部報道機関だけに独占されたり、一般市民の言論・発表の自由に著しく制限される危険が出てくる。新聞協会がそのようなことで自ら首を絞めるような行動をとることは決してないと信じている。
 「一般論として一律適用するものではないが、最大限の範囲で権利を主張しておく」ということは、不測の事態に備えるために必要な処置であろう。例えば、「記事の要約紹介なら侵害に与えない」ということを一般論として認めてしまったとする。「日記猿人界」をみても分かるように、ネット界には常識では考えられないようなとんでもないことをする人がいる。そこで、例えば、その日の朝刊一面をOCRですべて読みとり、ワープロの要約機能を使って30%に要約し、ネット上で流す人が現れてくるかもしれない。いかに営利目的であっても、あるいは新聞社に対する露骨な嫌がらせであったとしても、いったん「記事の要約紹介なら侵害に与えない」という一般論を認めてしまえば、抗議や訴訟を起こすことができなくなってしまう。そこで、やはり、最大限の権利の範囲として、「記事の要約紹介でも権利侵害にあたる」と主張しておく必要があるのは納得がいく。ただ、権利を行使するかどうかは、あくまで利用者の動機や利用形態を見極めた上で、個別に判断していくということになるということだ。
 では、新聞社から抗議を受けないなら何をしてもよいのか。これはもちろん否である。上記の「権利主張の最大限」の範囲に抵触する可能性がある形で、記事の引用や要約紹介を敢行する場合には、公共の利益、知る権利の保護、学問教養知識の普及に一致するものでなければならないだろうし、報道機関の信頼を損ねたり、営業活動の妨害にあたるような行為は厳に慎まなければならないと思っている。

 うーむ、時間がないのに、またまた長くなってきた。手身近に今後の対応方針を述べたいと思うが、これには「本音」と「建前」がある。
 「本音」としては、もともと「スクラップブック」は自分自身が論評活動を行う上で引用する必要があると考える記事を、データベース化する目的で始めたものであったから、これを公開することのメリットは私自身には何もない。ちょっとでも面倒なことがおこるなら、さっさと個人のハードディスク上のファイルとしてだけ保管したほうがベターだという考えは、前々から持っていた。それと、現実問題として、これを毎日更新することには少々負担を感じている。いちばんの問題は、朝の「英会話入門」を真剣に聴けなくなったということだ。
 ただ、建前論として、いまここで、公開や更新を中止してしまうと、悪い前例を作ってしまう恐れがある。今回の「見解」の内容は十分理解できるものであるし、私もこれに沿って、できる限り「見解」に抵触しないように更新を続ける方針であるが、100%の遵守すると、「作品自体の存在を知らせる目的の数行程度の要約」以外には新聞記事の要約紹介はできなくなってしまうが、これでは、社会現象を題材にした論評活動などは到底できなくない。このあたり、私が「スクラップブック」活動を続けることには、より具体的なガイドライン設定を検討する際の1つの資料としての存在価値が出てくるかもしれない。
 「見解」に書かれてある「自由で民主的な社会を維持し、発展させていくためには、新聞が社会生活の様々な場所にある多様な情報や意見を幅広く収集し、世の中に伝達していくことが必要です。」という主張は納得できるものであるし、その一方で、「社会生活の様々な場所にある多様な情報」について、ネット上で、一般市民が種々の資料を提供し合って幅広く意見を述べ合うこと自体は、新聞社やテレビ局も否定できないはずである。双方向型の新しい形態の情報伝達社会にどう対応していけばよいのか、いましばらく「スクラップブック」を続けながら、この問題を具体的に考えていきたいと思っている。

971115(土)[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(3)リンゴはなぜ著作物でないか?
土曜日は、ネットがすいていたので、gooを使って、「新聞記事」と「著作権」をキーワードに関連発言がありそうなHPをいくつか覗いてみた。本日の時点で、この2語の両方を含むページはは561件あった。なかには、総会屋のページのようなものもあったし、岩崎良美のファンクラブのようもあって、該当ページを見つけ出すには苦労した。日記猿人から外に出ると、新聞記事の引用や転載をしているHPが予想外に多いことがわかった。新聞協会が今回の見解は、一部に「スクラップブック」を意識したものであるとの示唆があったが、こうして見ていくと、どうみても深読みしすぎではないだろうか。
 さて、きょうは、著作物はなぜ保護されなければならないのか、どの範囲までどういう形でで保護されなければならないのか、ということについて考えてみたい。
 著作権問題では、「現行法」に照らし合わせて違反かどうか、法令解釈をどう読みとるかといった話題に集中しやすいが、現行法は必ずしも完璧とは言えない。時代の流れの中で現実にそぐわない部分があれば、その網をかいくぐって反社会的行為をする人が出てくる。いかなる反社会的行為があっても、法律に違反していなければ裁判所は有罪判決を出せないし、民事面での賠償を認めることもできない。そのいっぽう、時代の流れのなかで、形式的には法令に違反するが現実には社会的にすでに許容されている行為というものもある。さらにヌード写真の猥褻基準のように、法令は同じ文言であっても、時代の流れのなかで取締の基準が変わっていったものもある。このあたりで、いったん、「現行法がこうだから」とか「見解がどうだから」といった議論から離れて、根本的なところから考え直してみる必要もあるのではないかと思う。

 ここに色つやのよい赤くて大きなリンゴが1つあるとする。これは、リンゴ生産農家が、丹精こめて作り上げたものだ。しかし、これは著作物ではない。それを生のまま食べようと、ジュースにしようと、アップルパイにしようと、あるいは別の人に売ろうと、消費者が著作権侵害で訴えられることは決してない。リンゴも論文も新聞記事もみな同じように、個々人や団体が努力して作り上げたものであるのに、なぜリンゴには著作権がないのだろうか。
 いちばん考えられる理由は、おそらくこうだ。リンゴは決してコピーできない。つまり、楽をして、複製物で大儲けすることはできない。したがってリンゴが売れた時点で、それまでの努力は正当に評価されるのである。
 同じリンゴでも、その種を蒔いてリンゴの木を増やすとなるとちょっと話が違ってくる。もし、そのリンゴが特別の品種であったとすると、品種改良者の多大な努力がそこで報われなくなる。
 あるいはこういうことも言える。特定産地のブランド品と偽って安物のリンゴを売れば、本物の産地の人々の努力に打撃を与えることになる。
 この例からわかるように、著作物保護の根底には、「公共の利益」とともに「個々人(もしくは団体)の努力」を正当に評価・保護することが、人類全体の発展にとってプラスになる、という考え方があるのではないかと思う。
 つまり、新しい物を創作したり、新しいことを発見したりするには相応の努力が必要である。苦労して作った創作物を、他の人が何の手間ひまかけずに複製して大儲けできるような社会であったら、地道に努力することなどアホらしくなってしまう。これは文書の著作権ばかりでなく、特許、品種登録、商標、意匠などにも共通して言えることである。

 しかし、その一方で、創作者や発見者の功績をいつまでも独占させてしまうと、後発者の努力に制限を課すことになり、結果的に、いつまでたっても人類の共通資産としての活用がむずかしくなる。たとえば、ある医者が難病の治療法を開発したとする。その治療法の実施を開発者に独占させてしまったら、せっかく治るはずの患者を見殺しにすることになりかねない。そこで、個々人(もしくは団体)の努力を正当に評価することと、その成果を人類の共通資産としての活用することの両方の意義を見据えた法対策が必要になってくるのであろう。

 前にも指摘したが、著作物の保護は、オリジナリティの保護(詳しい法律用語は知らないが、たぶん、著作者人格権あるいは同一性保持権と言われているものだろう)と、引用、転載など再配布の権利に関するものに分けて考える必要がある。
 オリジナリティの保護とは、その著作物の内容が歪められたり、盗作や剽窃を防ぐためのルールである。法律はどうあれ、このオリジナリティは人類が存続する限り永久に保護されるべき権利であると考える。ただし、パロディをどこまで認めるかといった議論は別にある。
 いっぽう、再配布にかかわる権利は、永続的に認めると人類共通の資産としての活用を著しく損ねることになりかねない。著作物の公共的性質、あるいは著作者がそれを配布することによって得られる利益にどの程度依存した生活をしているか、などを考慮して期間を区切って認めるべき権利であろうと考える。

 新聞記事において、単純な事実描写以外のすべての記事にオリジナリティがあることは、当然であろうと私は考える。問題は、その再配布の許容の範囲である。きょうは時間がないので、問題提示にとどめるが、新聞記事の活用を考える際には、新聞社が、国民の知る権利を守るために特権を与えられていることにも目を向ける必要がある。例えば一般の国民が裁判の傍聴をする時には、抽選で傍聴券を手に入れなければならない。議会の傍聴も、数が限られている。しかるに新聞社は、報道機関であるという理由で、別枠で傍聴する権利が認められているのである。政府機関や学者に対するインタビューも同様である。一般市民が個別に首相にインタビューを申し入れても受け付けてもらえない。新聞社の取材に快く応じるのは(取材拒否の例外もあるけれど)、取材の結果が広く公表され、国民全般の知る権利を満たす役割を果たしていると信じるからにほかならない。
 そうしたいわば特権を活かして入手された情報が、著作物であるという理由だけで、新聞社に独占的に配布権が認められ、「いちいち新聞社に事前のお伺いをたてなければ、個人には、インターネット上で配布する権利が一切認められない」というようなことにでもなれば、これは、大問題である。
 もうひとつ問題提起をしておけば、いったん販売された新聞記事をもとに、読者がその必要に応じてオリジナルの資料集を作成し、出典を明記したうえでインターネット上でデータベースとして公表する活動は、新聞社の許諾なしにはできないのかという問題がある。新聞社の中には独自に記事をデータベース化しCD-ROMやオンラインで有料で提供しているところがあるので、この面での営業妨害には当たるかも知れないが、これは、元来の新聞社の営業活動ではない。著作権上の営業妨害は、あくまで、新聞の販売部数の影響を与えるかどうかによって判断されるべきではないだろうか。このあたりも次回以降に考えていきたいと思う。

971116(日)[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(4)なぜ、引用や転載に条件をつけたがるのだろう
 今回の、日本新聞協会の「ネットワーク上の著作権について」と題した見解(11/10、以下「見解」と略す)は、「新聞記事は、ほとんどの場合が著作物にあたる」と指摘し、引用に厳しい条件をつけた上で、「著作物というものは一般的に著作者の許可なしに要約したり転載したりできないものである」という、法的にも社会的に合意された根拠に訴えて、記事の転載はもとより引用やリンクまで、発信元の新聞・通信社に連絡や相談を求める内容となっている。
 著作物というと、小説や美術作品、音楽、コンピュータプログラムなどがすべてが含まれるため、「Aは著作物だ。何であれ著作物の転載には許可が必要だ。よって、Aの転載には許可が必要だ」という形の論法はいっけん説得力をもつものと言えよう。しかし、これまで指摘してきたように、新聞記事の大部分は、報道機関という特権を活かして収集された情報を含むものであり、小説や音楽と同類には扱えない公共性をもっている。新聞の販売部数に影響を与えるというならともかく、なぜ新聞協会は、一般論として、営利を目的としないホームページにおける引用や転載にまで厳しい条件をつけようとするのであろうか。この点について、「見解」は、何ら説得力のある理由を示していないように思う。

 ここで少し脱線するが、学術論文の場合を考えてみたいと思う。たしかに一部の研究者の中には自分の論文が複写されたり再配布されることをひどく嫌う人もいる。学会の財政を守るという観点から学会発行誌の複写に厳しい制限を加えようとする人もいる。しかし、著作で生計を立てている人ならともかく、大学教官のようにちゃんと給料をもらって研究を続けている人の場合には、論文が無断で複写されようと、かなりの部分が資料集などに転載されていようと、結果的に自分の論文が少しでも多くの人々に読まれることになるなら、著作権侵害といって怒り出す人は、あまりいないのではないかと思う。
 論文を引用する場合でも同様だ。重要な点はあくまで、引用の範囲と原著者名を明記することである。これによって原著者のオリジナリティは完全に守られる。その引用を元に新たな研究が進展すれば何よりの喜びであろうし、仮に反論を目的とした引用であっても、とにかく学界で自分の主張が注目されることはうれしいものだ。いちばん空しいのは、誰からも引用されず、注目されず、埋もれていくことである。
 論文の引用範囲は、引用に必然性がありかつ必要最低限の範囲でなければならない、と言われるが、この判断も難しい。ある人の主張を最低限に引用するということは、極端に言えば、結論の一文を引用するということだけだ。しかし、その主張がどんな文脈でなされたのかを紹介しなければ、第三者にかえって誤解を与えてしまう。一例をあげれば、私は福祉問題では、「大きな政府論」より「小さな政府論」を支持しているが、これはあくまで行動分析学の視点に立って個々人の自助努力を強化するような社会システムが必要であるとの文脈に沿って主張しているのである。この文脈を無視して、「長谷川は『大きな政府論より小さな政府論を支持している』と述べている」とだけ引用されのでは、非常に大きな誤解を受ける恐れがある。主張内容が誤解されないように配慮してもらうという観点からは、「必要最低限」というよりも「紙面の許す範囲で、誤解を与えないのに十分な最大限の量」を引用してもらったほうが遙かにありがたい。

 新聞の発行と同時に誰かがその記事を丸ごと転載しホームページで発信することになれば、確かに営業妨害に当たるだろう。しかし、例えば資料集という形で後日、関連記事を収集するような場合、なにゆえに発信元の新聞・通信社に連絡や相談を求める必要があるのだろうか。盗作や剽窃は絶対に許せないが、出典を明記したものを資料集として公開することは、新聞社にどういう損害を与えるというのだろうか。相談を義務づけるということは、自動的には承諾しないという意味であろう。となると、どんな場合にどういう理由で承諾を拒否するのか。この点で、ぜひ関連機関のご意見をうかがいたいものだと思う。

 なお、これまで、私のスクラップブックは、新聞が配達された日の朝に執筆を開始し、8:00前後にサーバにアップしていた。私はもともと、スクラップブックの連載が、当該新聞社の販売部数を減らして損害を与えているとは思っていないし、むしろ、引用をすることで、元記事を見るために新たに新聞を買いに行く人がいるのではないかとさえ思っているが、この時刻は、駅などで朝刊を販売している時間帯であることも確かである。それゆえ、このアップ時刻だけを根拠に、営業妨害にあたると指摘された場合、形式上はその可能性を否定できない弱みがある。そこで、今後は、アップの時刻を昼休みに延期することに決め、明日以降に実行する予定である(11/17は新聞休刊日のため)。但し、昼休みは曜日によって必ずしも暇とは言えないので、さらに延期して夕刻にすることも検討している。これは、私の自主的な判断によるもので、決して、どこからか圧力がかかったものではないことをここに明言しておく。

971117(月)[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(5)事実の伝達と著作物「花子さんは6歳年下の太郎氏と、1997年11月17日に結婚した。」は事実の伝達だろうか。
 この連載の発端となったスクラップブックについては、すでに当該新聞社にその存在と掲載内容が伝えられており、このことは本日午後、公式に確認された。今後は当事者間の問題として協議することになると考えるが、もともとこの連載自体は、「スクラップブック」更新活動の弁護のために行っているのではない。「スクラップブック」とは切り離して、あと数回の予定で、一般論をひきつづき展開していきたいと考えている。例えば、「スクラップブック」には報道写真を転載したことは一度もないし、今後もその予定は一切ないが、ここで述べる意見のなかでは、この問題も合わせて考えていきたいと思っている。

 さて、きょうの話題は、「事実の伝達」とは何かという問題。著作権法第10条第2項は、「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」には著作権はないとしている。これに対して、日本新聞協会の「見解」(11/10)は、
死亡記事であっても、故人がどんな人で、どのような業績があったのかに触れたり故人を追悼する気持ちを出そうとしたものや、交通事故でも事故の背景や周辺の様子などを記述していれば、単な事実の伝達を超え、記者ごとの特徴を反映した記事になります。著作権法では、著作物とは「思想又は感情を創作的に表現したもの」と定義(第2条の1号)しており、記者によって表現に差が出るような記事は、著作物の条件に当てはまると言えます。
としている。これは拡大解釈すれば、記者によって書かれた記事は、どんなものでも著作物になりうる可能性が出てくる。
 例えば、
花子さんは6歳年下の太郎氏と、1997年11月17日に結婚した。
という記述を考えてみよう。これはどのようにみても事実の記述にすぎないように見える。しかし、こんな可能性はないだろうか。 もし、新聞社10社中9社が「太郎氏は平成9年11月17日に結婚した」と報じているなかで、1社の記者だけが上記のような表現をとったとしたら、この記述は「記者の思想又は感情を反映し、記者によって表現に差が出るような記事」(=著作物)と言えないこともない。
 この例に限らず、現実の複雑な現象を言語的に表現するにあたって、思想又は感情が全く入らない記述表現が可能であるか、はなはだ疑わしいのではないかと思う。

 上記のように理屈をこね回せば、何でも主観表現になりかねないが、我々は別に、新聞記者の華麗な創作表現に感動するために報道記事を読んでいるわけではない。多くの新聞読者が求めているのは、できる限り記者の主観の入らない事実の報道である。じっさい新聞社もそれに答えるべく、極力、報道と論説を区別した紙面作りに心がけているはずである。いっぽうでは「公正な報道」といっておきながら、著作権の話題になると「公正な報道記事」にも記者の思想又は感情が入っていると主張するのは、ちと矛盾しすぎるのではないだろうか。

 いずれにせよ、「どれが著作物で、どれは著作物に当たらないのか」などという議論は、あまり意味をなさない。議論が著作物かどうかに終始すれば、行き着くところは「何であれ著作物の転載には許可が必要だ」という一般論で終わってしまうことになる。報道記事は著作物に当たらないと主張する人もいるが、これは結局水掛け論になる恐れがある。新聞記事に著作物の性格があるかないかという議論ではなく、引用や転載をどこまでフリーにできるかという議論に話題を転じるべきである。
 今後の執筆予定は次の通り。順序はこの通りとは限らない。「スクラップブック」関連の個別協議で重大な問題が生じればそれを取り上げることもある。 これらひととおり、意見を述べた時点で、このホームページ内に特設コーナーを設け、関連サイトのリンク、ご関心をお持ちの方のご意見掲載、心理学関係者のMLへの呼びかけなどを行っていきたいと考えているので、ぜひご協力をお願いしたい。

971118(火)[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(6)ネット界で正確な情報を交換するために
 インターネット上での個人ページが自由に開設されるようになって、いちばん大きく変わったのは、個々人が旧来のマスコミの力に頼らずに、全世界に情報を発信できるようになったことであろう。これまでは、自分の意見を発表する手段が限られていた。新聞の投書欄に投稿しても、編集者の目にとまらなければ掲載してもらえない。渋谷の駅前でのぼりを立てて演説をするという手もあるが、警察に捕まることはないとしても、変人扱いされるのがおちであろう。
 これに対してホームページを開設すれば、一個人も、同じブラウザの画面では、大新聞と平等な地位に立てる。魅力あふれるページを作りそれなりの宣伝さえするならば、小説家、詩人、写真家、評論家など、お望みの名声を得ることができるのである。
 さて、誰もが自由に情報を発信できようになった点は望ましいが、問題は、その信頼性にある。朝日新聞(アサヒコム/ここではミラーへリンク)特集記事「マルチメディア」の中の「情報が凶器に変わる日」の連載記事を拝見すると、種々のデマメイルの話、また、例の神戸の事件で、インターネットの掲示板に少年の実名を特定しようとする書き込みが流れ、全く関係のない近所の家までが嫌がらせ電話に悩まされたということが記されている。私自身もじっさい、この数ヶ月のあいだに、デマウィルス情報、ネズミ講メイル、また、東海地方の某大学教官の死亡デマ情報などを経験してきたた。また同じ特集記事からの孫引きになるが、リクルートリサーチが7月に実施した、インターネット利用者約1200人への調査では、インターネットについて「情報に信頼性がある」と答えた人は20%であったということだ。
 たしかに、匿名の電子メイルや、匿名で書込ができる一部の掲示板・伝言板ならそういう危険性も出てくるが、であればこそ、ネットを正確な情報伝達手段とするために、どういう条件を整える必要があるかを考えなければならないのである。
 さて、ネット上で何が信頼できるかと言えば、まずは、関係者本人の直接の言葉であろう。しかし、すべての人が自分の発信源をもっているわけではない。かといって、世界中を歩き回って情報を集めることもできない。そこで役に立つのが、新聞社や放送局の情報である。
念のため言っておくが、新聞やテレビの報道が絶対正しいと言っているわけでは決してない。松本サリン事件や、神戸の小学生連続殺傷事件の容疑者逮捕前の報道に、種々の先入観や誤りがあったことは報道機関各社が認めているとおりである。

 ところがもし、無断転載はもとより引用まで禁止ということになると、ネット利用者は、直接新聞社等のHPを見に行かなくてはいけない。もちろん、それが瞬時にしてアクセスできるなら転載は不要であろう。もともと、引用とか転載というのは、印刷文書で情報が交換されていたときのやむを得ない措置だったはずである。インターネット時代のこれからは、もしリンクだけで瞬時に希望の記事にアクセスできるのなら、わざわざ本文中に他者の著作物を転載する必要などない。
 しかし現実には、新聞社が提供するホームページは、時間帯によって混雑のためにアクセスできないこともあるし、かならずしも新聞記事の全部を載せているわけではない。全記事のデータベースは大概有料であり、会員でなければ閲覧することができない。一例をあげれば、読売新聞の場合、入会金2,0000円と月額基本料金1,400円で「ヨミネット」に入会する必要がある。いや、この程度の会費ならそれほど高いとは思わないが、いちばんの問題は、会員にならなければ、ネット上で新聞記事を資料とした意見交換ができないということだ。僅少であっても情報提供が会員に限定されているということは、「誰でも自由に参加できる」というネット上での議論に根底から制約を課すことになるからである。

 新聞記事の引用や転載が禁じられた場合の弊害を考える事例として、「アルミ製の食器を使用することの危険性」の問題を考えてみよう。これは、私のスクラップブックでは、6/23、6/30、7/7、7/21づけで朝日新聞の現代養生訓という連載記事に言及しているが、これらの記事が引用あるいは転載できないとするとどういうことになるだろう。著作権に抵触しない書き方は以下のようなものになるだろう。  表現例1や2では、すぐにアルミ食器をステンレス製に換えなければならないのか、当面は交換するほどのことはないのか、確かな情報はどこにもない。表現例3のように、“過去の「現代養生訓」をぜひお読みください”とか言われても、図書館に出向いて縮刷版やCD-ROM版の記事データベースを参照するか、古紙回収業者のところで古新聞の束から該当記事を探し出すしかない。これではネット上で、客観的資料の基づいてアルミ食器の問題を議論することはできない。記憶や伝聞に頼った、ソース不明の情報には尾ひれがつきやすい。結果的に、アルミ食器業者やアルミホイル業者に不当な打撃を与える危険性すらある。
 じつは、アルミ問題に関して、資料集が見出し集に変身させられたという「事件」が、実際に起こっているのである。この方の「アルミの恐怖」についての資料集は、確かに新聞記事の転載に相当していた。しかし、これに代わる無料の記事データベースは当該新聞社によっては提供されていない。緊急避難的措置として設けられたこの資料集を、このような見出し集に変身させてしまうことが、ネット上での「アルミ問題」についての正確な情報伝達にとってプラスになるとはどうみても考えられない。この方の提示版には、「書き込み自粛宣言」前に何度か出入りさせてもらったという気軽さがあったので、直接お尋ねしてみたところ、この「見出し集」への「変身」は、先の見解を受けて御自身が新聞社への問い合わせた結果の措置だそうだ。つまり、文言の丁寧さは別として、結論的には転載を断られたということである。
 上記の資料集は、開設者が、アルミの恐怖をホームページ読者に広く知らせる必要を切実に意識し、その目的のもとで正確さを重んじる観点から、必要最低限の新聞記事を引用したものと考えることもできる。しかし、これに関して新聞協会(11/10)は、「引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない」という著作権法第32条をひいたうえで、
対象となった著作物を引用する必然性があり、引用の範囲にも合理性や必然性があることが必要で、必要最低限の範囲を超えて引用することは認められません。また、通常は質的にも量的にも、引用先が「主」、引用部分が「従」という主従の関係にあるという条件を満たしていなければいけないとされています。つまり、まず自らの創作性をもった著作物があることが前提条件であり、そこに補強材料として原典を引用してきている、という質的な問題の主従関係と、分量としても引用部分の方が地の文より少ないという関係にないといけません。
という見解を表明している。これを厳密に解釈すると、「自らの創作性をもった著作物」が転載資料に先立って存在しなければならないということになる。これでは、ホームページ上で、まず新聞記事などから必要な資料を収集したうえで、Eメイルや併設の電子掲示板など多くの人の意見を求め、あとから自分の最終的な結論を表明するという形式の企画は不可能になってしまう。上記の開設者がそこまで意図されていたかどうかは定かではないが、私自身、ここで、「資料先提示・御意見募集」型の企画を検討しており、特に神戸の事件については、「容疑者逮捕前に、心理学者や精神医学者、カウンセラーなどがどのような犯人像を推測していたのか」について、記事転載に基づく資料提示をしようと考えている。これを開設する場合には、もちろん当該新聞社あてに連絡をとる予定であるが、もし、相手方が転載拒否の姿勢を示した場合は、そう簡単には引き下がらない決意であることをここに表明しておく。
 いずれにせよ、不確かな伝聞情報や意図的なデマが広まりやすいネット界で、新聞社が記事の転載を禁じるということは、ネット上でのデマ情報拡散を手助けをすることにさえならないだろうか。それほどまでして、新聞社は、自社の記事の著作権に固執したいのか。いや、出典を明記することでオリジナリティは守られているから、こう言うべきだろう。そんなにまでして、自社の記事が転載されるのを禁じる理由はどこにあるのか? 関係機関のご意見をうかがいたいものだ。

971119(水)[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(7)事前に承諾を求めることについて
 さて、きょうは、著作権問題の最終回とする予定であったが、13:30から20:10まで長時間の会議があった。いくら論争の好きな私でも、激論をたたかわせてきた直後に最終回のまとめをするというのは、ちょっとツライ。やむをえず、最終回は明日に延ばすこととし、きょうのところは、「事前に承諾を求めること」に限って考えてみることにしたい。
 新聞協会の見解(11/10)は、その最後の部分で、
新聞・通信社が発信する記事、ニュース速報、写真、図版類には著作権があり、無断で使用すれば、著作権侵害になります。..【中途略】....利用者の側が、情報をどのような形で利用しようとしているか、動機も、利用形態もまちまちなため、新聞・通信社としても、個々の事情をうかがわないと利用を承諾していいものかどうか、一般論としてだけでは結論をお伝えすることはむずかしい側面もあります。リンクや引用の場合も含め、インターネットやLANの上での利用を希望されるときは、まず、発信元の新聞・通信社に連絡、ご相談をしていただくよう、お願いします。
と結んでいる。「お願いします」という柔らかい表現にはなっているものの、ここでは、転載はもとより、リンクや引用の場合でも、まず当該の新聞・通信社に事前の承諾を求めることが不可欠であるとの立場にたっているようだ。

 初めに、リンクに事前承諾が必要かどうかという問題に簡単にふれておくが、私は、インターネット上で不特定多数に情報を公開しているWebページで公共的性格が強いものについては、原則としてリンクの事前承諾を求める義務はないという立場にたっている。ただ、個人が開設したホームページなどで、カウンタチェックの必要などからTopページへのリンクを希望されている場合にはそれに従うべきであろうし、恒常的なリンク集に加える場合には、「リンクの連絡は不要です」という断り書きがない限りは、事後でもよいから相手方にその旨を伝えることがエチケットであろうとは思う。このほか、画像リンクについては表示の仕方によっては盗用と区別できないケースも考えられ、一定の制約が必要であるとは思うが、これは別の機会に論じることにしたい。
 次に、「引用」と「転載」であるが、すでに指摘してきたように、その区別は、なかなか難しい。
 たとえば、「引用」の必然性と言っても、被引用者の主張を文脈にそって的確に引用するためには分量は多めにならざるをえない。単純に、分量の上で引用部分より地の文が多いからとか少ないからという基準で区別できるものではない。また、引用にどこまで必然性があるかという議論も、その文章の段落の中での必然性、1つの作品全体の中での必然性、一連のシリーズの中での必然性といったいろいろなレベルがあり、いちがいには論じられない。Webページ上での引用の場合も、その一画面の中での必然性から、文書内リンクにおける必然性、同一ホームページ全体の中での文書間リンクにおける必然性といったレベルの問題がある。
 もちろん何の脈絡もなしに他人の文章を相当範囲にわたって掲載したものが引用であるわけはない。明らかな引用、明らかな転載というものがあることは確かである。問題は、その境界領域での見極めであり、その場合、被引用者と引用者のいずれか一方の判断だけに委ねられるものではなかろうと思う。

 引用や転載をする場合は、礼儀としてのレベルから法的な義務のレベルに至るまで、原則として相手方に承諾を求めることは必要であろうとは思う。ただ、引用的性格が強い場合(上述の議論から、100%明確な「引用」はありえないということで、こういう表現を用いた)、相手の承諾を待ってから執筆を開始したのでは、発表時機を失するということもありうる。このあたりは、被引用者に損害を与えたり名誉を傷つけたりしないことを前提に執筆者の良識に委ね、悪質なケースについてだけ告発をしていくほかはないのではないかと思う。
ある新聞社のHPの記事の中に、「無断引用禁止」という表現(たとえばここ)を見かけたが、「無断転載禁止」ならともかく、不特定多数に公開されている情報について、引用まで禁止するのは不適切であると思う。新聞記事、出版物はもとより、Web日記に至るまで、不特定多数に公開された文章は、「公正な慣行に合致し、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内」において、常に、引用され批評される責務を負うし、それを拒むことはできないと思う。

 明確な転載の場合は、著作権者に事前の承諾を求めるのは当然のことである。問題は、相手方が拒否した場合であろう。
 小説や詩など芸術的性格が強いものについては、金銭上の損害が全くない場合でも、著作権者は、その場の気分で転載を拒否できるものと考える。
 いっぽう、ある著作物の内容に誤った情報が含まれていて、テレビや新聞を通じて一般社会に大きな影響を与えたような場合、その誤りを具体的に指摘する目的をもった人が元記事を引用する場合は、実質的に転載に相当するほどの引用があっても、著作権者はそれを拒否できないのではないかと思う。例えば、私は、この特設コーナーにおいて、テレビ番組(「検証! 血液型性格のウソ・ホント」関西テレビ系の『発掘!あるある大事典』6月15日21:00-21:54 )の放映内容をかなり細かく引用した。このurlについては、番組HPに記載されたメイルアドレス宛にはすでに掲載した旨の連絡をしてあるが、未だに抗議も承諾ももらっていない。しかし、仮に削除要求が届いたとしても、私はそう簡単には引き下がらない決意である。なぜなら、あのテレビ局の放映内容は、娯楽性が強いとは言え、「血液型と性格」について科学的根拠のない俗説を一方的に流布している。その不適切性については、私以外の心理学者からも批判の声が上がっている。こういう時に、まず番組でどういう内容が流布されたのかを正確に把握し、そのうえで具体的に反論をしていくことは、当然の行為であると考えるからだ。
 新聞記事の場合も、その報道内容に明確な誤りがあった場合には、その詳細を引用され批判を受ける責務があるだろう。この場合、証拠保全の目的から、該当記事をスキャナで取り込み、議論の過程で公開するということもありうる。こういう場合、形式的には転載にあたっても、新聞記事が社会的に与える影響の大きさを考えれば、転載拒否はできないのではないだろうか。

 このほか、新聞各社の報道姿勢の違いを批評するために、一面の見出しのサイズを比較するという場合もあるだろう。一例をあげれば、8月10日の「じぶん更新日記」で指摘したように、自民党憲法調査会が5日に発表した「憲法アンケート」の結果は、讀賣や産経と、朝日や毎日では、その報道の仕方がまるっきり違っていた。これを視覚的に鮮明にするには、各社の記事をスキャナで取り込み、画像として面積を比較するということもありうる。記事の文章が細かく読みとれるような提示の仕方は著作権侵害にあたるが、見出しのサイズやレイアウトだけを知らせる程度の縮小画面であれば、決して著作権侵害には当たらないし、転載拒否もできないのではないかと思う。

 うーむ、長時間の会議のあとではこれが限界だ。中途半端だが、きょうはこれだけにしておく。書き切れなかったことのアウトラインは以下のとおり。

971120(木)[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(8)とりあえずの最終回
 土曜日の朝から出張に行くという事情もあるので、この話題については、きょうでとりあえず最終回としたい。いろいろ出張の準備もあるので、明日の日記が書けるかどうかは未定であるが、いずれにせよ、近日中に、新聞記事引用と著作権問題に関する特設コーナーを作り、関連サイトのリンクと御意見コーナーなどを充実させたいと思っている。

 さて、最終回のきょうは、過去・現在・将来における新聞社の役割を念頭におきながら、新聞記事の引用・転載の問題を総合的に考えてみようと思う。
 まず、今回の日本新聞協会の見解(11/10)の論点を、私なりに整理しておきたい。  これに対して、私は、新聞記事の内容には公共的性格があり、小説や詩歌の引用や転載とは同等に扱えず、ネット上で正確な資料に基づいて自由な議論を保障するためには、引用はもとより転載についても、営業活動の妨害にならない限りは、それを拒否する合理的な理由は見あたらないことを指摘した。
 新聞記事を元にした個々人の議論や論評には緊急性があることも指摘してきた。事前に引用や転載の許可を求めてほしいという主張が正当であったとしても、生鮮食料品的価値を失う以前に、当該の新聞社側が短時間以内に許諾を与える態勢にあるとは、到底思えない。しかも、ホームページ開設者は、この半年あまりのあいだにも加速度的に増加している。
一例をあげれば、私がスクラップブックを登録した97年3月26日の時点で、代表的なWeb日記リンク集である日記猿人の登録番号は566番であった。ほぼ半年後の本日11月20日朝の時点では、最新の番号は1141番と、2倍以上に増加している。
新聞各社が、転載の相談を受ける窓口を拡充しても、要請件数が、毎日何千、何万にのぼるようになれば、処理能力はいずれパンクする。転載申請への回答が遅れることに嫌気をさして、いちいち事前の相談をせずに記事を引用・転載していく「非合法」ページも増加していくかもしれない。それをチェックできる能力が新聞社側にないとすると、律儀に転載申請をした正直者ばかりが転載拒否に合うという不公平を生じる可能性だってある。事前承諾を求めるという今回の「見解」は、将来のインターネット利用の飛躍的な増加を見通していないという点で認識に甘さがあり、「悪法でも法は守らなければならない」という一般論だけで新聞業界の権益を確保しようと目論んでいるように思えてならない。
 
 新聞社は、これまで、世論の形成に大きな役割を果たしてきた。それは、新聞社側が情報を提供し、読者がそれを読む。読者の意見は、新聞社の声欄への投書、あるいは小規模な市民運動が新聞で紹介されるという形で一般大衆に伝えられていく。つまり、双方向の情報伝達とは言っても、その経路は完全に新聞社によって統制されてきたのである。
 こうした時代が長く続いたせいであろうか。どうやら、新聞界には、「素人さんに、正確な情報発信などできっこありません。素人さんの情報発信なんて信用できません。情報発信はプロである私たちにお任せを」というおごりがあるのではないか。あるいは、ネット上での情報発信を新たなビジネスと位置づけ、その独占を目論んでいるのか。そんな疑いさえ感じざるを得ない。

 新聞協会の見解発表から10日あまりが過ぎた。発表から一週間後の17日の時点ですでに、朝日新聞、日経新聞、讀賣新聞が、自社のホームページ内に新聞協会の「見解」を転載し、毎日新聞もリンクの形で「見解」を紹介していることが確認できている。
 私は、新聞協会が何をめざして作られた団体なのかよく知らないが、いずれにせよ、このように各社が一致団結して新聞協会の「見解」を紹介していることには、ある意味では恐ろしさを感じざるを得ない。
 新聞の報道が、一般に公正なものであることは私も認めるところであるが、従来より、新聞社の権益に係わる報道では必ずしも反対意見を公平に紹介しているとは言えないところがある。例えば、新聞代の値上げがそうだ。申し訳程度に「値上げ反対」の声を紹介している場合もあるが、スペース的には反対意見は1〜2割程度、残りの8〜9割は「値上げやむなし」とする識者の声を紹介している場合が殆どではないだろうか。
 もし、新聞社が一致団結して記事の引用や転載に絡む業界の権益を守ろうとすることにでもなると、これは恐ろしい問題である。すでに指摘したように、今回問題にすべき点は、「記事は著作物であるか」という問題と、「それを引用・転載する自由がどこまで認められるか」という議論に分かれる。また、現行あるいは改正施行後の著作権法に照らし合わせた解釈ばかりでなく、今後のネット上の情報伝達のあり方や知識の共有に絡む問題も含まれている。これらについて、もし新聞社各社が、業界にとって都合の良い解釈ばかりを報じ、反対の声の紹介を怠ることがあるならば、大いに問題である。果たして、業界に都合の悪い解釈をどこまで新聞で紹介できるだろうか。今後の推移を見守りたい。
 新聞社各社はそれぞれ独立した報道機関でなければ存立価値はない。新聞協会の見解が協定や裏取引でないとするならば、今回の私の主張に沿って、例えば「販売から6時間を経過した記事は、出典を明記すれば原則転載自由とする」というような新聞社が1社ぐらい現れてもよいように思う。そうなれば、ネットの利用者は皆その新聞を購読し引用・転載するようになり、頑強に引用・転載を拒否する新聞社の販売部数は減少していく...。そうなった時、どこかの業界の談合のように、転載自由を認めようとする新聞社に対して他社や協会は圧力をかけようとするのだろうか、これも注意深く見守っていきたいと思う。