じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 校友会トレーニング棟ができるまで。

 12月21日の日記に、完成した校友会体育系クラブ棟の写真を掲載した。このあたりは早朝の散歩時のコースにあたっており、工事中の写真も何枚か撮っていた。写真は、トレーニング棟の建設の様子。少々意外だったのは、トレーニング棟の屋根に合板が敷き詰められていたこと。断熱効果を狙ったものかと思われるが、防火上は大丈夫なのだろうか。


2012年12月23日(日)

【思ったこと】
_c1223(日)12月に視たTV番組から:『第39回「日本賞」グランプリ受賞作品「皺(しわ)』『地球ドラマチック ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民』

 12月に視たテレビ番組の中から印象に残ったものを2つ。
  • 第39回「日本賞」グランプリ受賞作品「皺(しわ) [スペイン]【12月17日放送】

     認知症が進行して施設に入居した男性を中心に利用者の思いや生活を淡々と描いた作品。こちらに参考情報あり。
     何かを社会問題として告発するというようなスタイルではなく、すべてを観客に委ねているところが良い。スペインの高齢者施設のことは全く知らなかったが、日本と殆ど変わらないようにも見えた。グローバルな基準ということか。

     一度しか視ていないので見落としがあったのかもしれないが、ラストのほうで犬を連れた男性がエレベータの外に犬を置き去りにしてしまったシーン、そのほかいくつか、意図がよく分からないシーンがあった。また、主人公に関しては、奥さんや子育ての思い出が殆ど無かったのも、少々気になった。

  • NHK 地球ドラマチック ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民【12月15日放送】

     番組紹介サイトでは、
    ブラジル・アマゾンの奥地に、不思議な言語を持つピダハンと呼ばれる少数民族がいます。彼らの言語には数や色を示す言葉がなく、過去や未来の時制もほとんど見られません。ピダハンの人々は、アマゾンの豊かな自然の恵みの中で、「過去」を思い患うことも「未来」を憂うこともなく、充実した「現在」を生きているのです。心豊かなピダハンの人々の暮らしを、長年、彼らと共に暮らした元宣教師のアメリカ人言語学者の目を通して見つめます。
    と記されていたが、入域や取材が厳しく制限されていたためだろうか。彼らが充実した「現在」を生きていることを示すような映像は殆ど無かった。

     番組を視た限りでは、ピダハンの言語が注目されているのは、過去や未来の時制や数や色を表す言葉が無いということではない、文法構造に再帰性(文章は無限に延長可能)が無く、チョムスキーの理論の反証になるのではないかという点が論争になっているように思えた。

     私自身はスキナーの『言語行動』で十分と考えており、かなりの誤解・曲解をもってスキナーを批判したチョムスキーの理論については、なぜそれが重要なのかは理解できていない。

     もちろん、自然言語の文法処理は、脳の構造によって決定されており、その機能の一部として再帰性があるかもしれないことを否定するつもりはない。また、人類が共通した脳の構造を持ち、地球環境のもとで似たような生活をするのであれば、文法構造が似てきても不思議ではないと思う。

     しかし、そうはいっても、言語が共同体の中でのコミュニケーションの手段である限りは、必要な表現はますます精緻化するいっぽう、生活環境の中で役に立たない表現は退化し、死語となっていくのが必然である。少なくとも一昔前までの、ピダハンでは、具体的な事象を弁別するにあたって、色や数といった抽象的な概念を用いる必要は無かった。また、温暖な変化の乏しい環境のもとで狩猟生活をする限りにおいては、作物を収穫して蓄え翌年に備えるといった未来形の表現は不要。過去の経験もそれほど役立たないので過去形も不要。よって、それらが死語化してしまっても何ら不思議ではないと思う。

     一般論として、過去の回想は、栄光や懐かしさといったポジティブな効果と、ネガティブな出来事への後悔をもたらす。未来についての思考は、希望と同時に将来への不安をもたらす。母語に過去や未来の時制が無かったとしても、イメージとしての回想はあるし、これから先のことも考えるであろう。もし彼らが充実した「現在」を生きているとしたら、それは言語の特徴によるものではなく、満ち足りた自然環境との関わりに原因があると考えるべきであろう。