じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 ヒヨドリジョウゴの赤い実。

 大学構内の植栽に巻き付く雑草だが、この時期の赤い実はなかなか趣がある。ヒヨドリの名前がついているが、全草にソラニンを含むため食べられないという。


2012年12月19日(水)

【思ったこと】
_c1219(水)“叱りゼロ”社会はなぜ実現できないのか?(7)罰的統制と互酬(2)

 昨日の日記で、
互酬だけではやっていけないという前提に立つなら、好子出現阻止の随伴性によって人々を働かせる仕掛けはどうしても必要である、自由主義社会はそれを、占有と格差という形で巧妙な仕掛けによって実現しているだけだということである。
と述べた。念のためお断りしておくが、だからといって、我々はみな、無理やり働かされているというわけではない。どんな仕事にも生きがいがあるし、また逆に、無為徒食の生活の中から幸せを見つけることは難しい。そういうことは十分承知の上で、ある人が働いた場合と働かなかった場合に伴う結果(変化)を再検討してみる。その上で、働かなかったとしても平穏な生活が保たれるのかどうかを考える。もし、100%平穏であるというならば、その人は、好子出現の随伴性だけによって強化されていると言ってよいだろう。しかし、「働かざる者食うべからず」の言葉の通り、一部の貴族、大富豪などを除けば、労働能力ある者はすべて労働の義務を負う。すなわち、この社会は、好子消失阻止の随伴性によって強化される労働によって成り立っているのである。

 ここで少々脱線するが、ウィキペディアの当該項目によれば、「働かざる者食うべからず」という言葉は
新約聖書の一書でテサロニケの信徒への手紙二という使徒パウロの書簡といわれるもののなかの3章10節にある「働きたくない者は、食べてはならない」が元になった慣用句である。これは「働きたいが働けない人は食べてもよい」との条件下での言葉である。後にかつて存在した社会主義国であるソビエト社会主義共和国連邦の1936年のソビエト社会主義共和国連邦(いわゆる「スターリン憲法」)の第12条に労働の義務規定として盛り込まれた。
そして、日本国憲法においても、第27条第1項において、日本国民の3大義務の1つとして、
すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
と定められている。もっとも、こちらの項目に記されているように、日本国憲法のこの規定の由来については諸説あり、その中には「1936年制定のスターリン憲法(ソビエト社会主義共和国連邦憲法)を参照したのではないか」という見方もあるという。いずれにせよ、現実の日本では、不労所得だけで贅沢な暮らしをしている人も少なからずいるので、違憲状態が続いていると言えないこともない。

 とにかく、人間の社会は、大多数の人が働いて、食料を生産し、モノを作り、必要に応じて他者を助けることによって成り立っているわけであるから、好子消失阻止の随伴性がいくらイヤだと言っても、そこから逃れるわけにはいかない。問題はその随伴性をどう設計し、どう配置するかということである。

 規模の小さいムラ社会であれば、AさんがBさんを、BさんがCさんを、そしてCさんがAさんをサポートするというような円環型(循環型)の互助互酬によって、生活を維持していくことができる。例えば、住人が3人だけの島で、Aさんが農作物を、Bさんは衣類を、Cさんは種々の機具や大工の仕事をするということになれば、それぞれの労働は循環し、自給自足の社会が成立する。

 しかし、現実の世界では、よほど自然環境に恵まれていない限りは、閉じた世界の中だけで一定の水準以上の自給自足を維持するということは困難であろう。少し前にNHKで放送していた、

島国を除くと地球でイチバン小さな共和国サンマリノ

の場合も、GDPの50パーセント以上は観光客によるものであり、また切手販売も重要な財源になっているという。鎖国をしたら到底、国は成り立たない。また、「幸せの国」として知られるブータンも、国土がヒマラヤの斜面にあることを活かして豊富な水力による発電を行い、インドに電力を売却することにより外貨を得ているという。

 ムラ社会から国の単位に規模を広げた場合は、国による経済格差の問題がある。資源の豊かな国にあっては、国民全員が、好子消失阻止の随伴性によって働かされることなく、気ままに暮らすことも可能ではある。但しその場合、自国民以外の第三者からサービスを提供してもらう必要がある。実際には、貧しい国からの出稼ぎ労働者がそれを担うことになる。このほか、先進国が、開発途上国に工場を建てて現地の人に安い賃金で働いて貰うというのも基本的には同じ仕掛けと言える。国家間の経済格差や資源占有が無い限りは、1つの国の中の国民全員が気ままで贅沢な暮らしを続けるなどということは絶対に実現しない。

次回に続く。