じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 月と木星は、ほぼ27日ごとに接近するが、今回の最接近は11月2日の午前10時06分の0°53′となっている。写真は11月2日の早朝6時前に大学構内で撮影した写真。デジカメの場合、月が明るすぎて輪郭がぼやけてしまう。いっぽう、月にスポット露光すると月ははっきり写るが木星が見えにくくなってしまう。なお、月の斜め左下の星はアルデバラン。

 8月11日の日記に、月と木星が最も接近した時の写真がある。この時は月齢が23.7となっていたので輪郭がぼやけることはなかった。

11月1日(木)

【思ったこと】
_c1101(木)第5回日本園芸療法学会in 岐阜(9)園芸療法・園芸福祉学の研究方法論(8)まとめ

 10月31日の日記の続きで、「園芸療法・園芸福祉学の研究方法論」についてのまとめ。

 連載第1回目にも記したように、講演者のY氏は、脳神経内科医、医学博士、商学修士、漢方医、産業医の肩書きを持ち、現在は、某私立大の感性デザイン学教育研究室の教授、日本園芸福祉普及協会の理事長をつとめておられるという博識な方であった。特に、植物と患者とHT(園芸療法士)の三者をめぐる螺旋モデル、「保健医療の主要な趨勢」、さらにRAIDモデルの特長など、私にとっては初耳の部分も多くあり、大いに勉強になった。

 いっぽう、「質的研究のすすめ」は大いに興味があったが、時間的制約によるものだろうか、どういうスタイルの研究を勧めておられるのかがよく分からなかった。

 また、今回の内容は、セリグマンのいう「disease model」の域から抜け出せていないようにも思われた。セリグマンはこの点について次のように語っている。
And the conclusion of that is that psychology and psychiatry, over the last 60 years, can actually claim that we can make miserable people less miserable. And I think that's terrific. I'm proud of it. But what was not good, the consequences of that were three things.

The first was moral, that psychologists and psychiatrists became victimologists, pathologizers, that our view of human nature was that if you were in trouble, bricks fell on you. And we forgot that people made choices and decisions. We forgot responsibility. That was the first cost.

The second cost was that we forgot about you people. We forgot about improving normal lives. We forgot about a mission to make relatively untroubled people happier, more fulfilled, more productive. And "genius," "high-talent," became a dirty word. No one works on that.

And the third problem about the disease model is, in our rush to do something about people in trouble, in our rush to do something about repairing damage, it never occurred to us to develop interventions to make people happier, positive interventions.
【日本語トランスクリプトは以下の通り】
過去60年の心理学と精神医学の結論として言えるのは 苦しんでいる人の苦しみを和らげることができると確かに主張できることです これはすごいことです 誇りに思います しかしこれらの結果として3つ良くないことが発生しました

1つ目は行動規範についてです 心理学者と精神科医は被害者学者や病気を探す人になってしまい 困難は外的なもので どうにもできないのだと捉えてしまいました 人が選択と決定をすることを忘れ 責任ということを忘れたわけです

2つ目の代償は普通の人々について考えなくなってしまったことです 普通の人生をさらに良くすることを忘れてしまいました あまり困っていない人々をより幸せで より充実して より生産的にすることを忘れ 天賦の才や才能などは禁句になってしまいました 誰もそれを扱っていません

そして病理モデルの第3の問題は 困難にある人々に対して何かをしようという衝動 回復のために何かをしようという衝動です 私たちがそういう姿勢だったので 人々をより幸せにするポジティブな介入は発展しませんでした
 園芸療法や園芸福祉に携わっておられる方の中には、園芸療法は「make miserable people less miserable」、いっぽう「園芸福祉」は植物と接して、仲間をつくり、みんなで幸せになろう」というテーマにもある通り、ゼロのレベルからポジティブなものを作り出して行こう、というように切り分けているようにも思える。

 しかし、私自身は従来より、園芸はそれ自体が目的であって、何かを治すための手段ではないと考えてきた。園芸活動に治癒効果や健康増進効果があるかどうかという議論よりも、園芸活動を生きがいとしているものの病気や障害でそれを続けることが困難になってきた人たちに対して、どのようなサポートを提供すれば、主体的・能動的な形でそれを継続させることができるのかという点に興味がある。

 であるからして、最初から園芸に興味の無い人にはわざわざそれを勧める必要はない。園芸ではなく音楽が好きな人には音楽療法を行えばよいし、旅行が好きな人には「旅療法」、料理が好きな人には「料理療法」、...というように、「それぞれの人の独自性と個性を認め、生きることの意味を取り戻し維持するための機会を持てるようサポートし、自己実現をしたいという要求に応え」(←ダイバージョナルセラピーの考え方)ていけばよいのではないかと思っている。

 もちろんそのように考えてしまうと、保険点数には含まれないことになるが、だからといって普及が進まないわけではない。現在でもある程度行われているとは思うが、種々の高齢者施設を利用するにあたって、施設利用のクーポン(バウチャー)を配布し、利用者が自分にあった施設を自由に選べるようにすれば、園芸活動が好きな利用者はとうぜん、園芸療法施設やスタッフが充実したところを選ぶようになる。これによって、各施設の質の向上がはかれるはずである。但し、現状では、人気施設を利用するためには長期間待機が必要であるとか、家族の生活環境や経済事情によって、当事者が望むような施設を利用できないということはあると聞いている。

 このほか、各施設の設置基準のような形で、一定面積の庭(大都市では屋上庭園)の設置を義務づけるとか、近隣の公園の管理を委託し、車いす仕様にしたうえで、公園花壇管理の一部を隣接する施設に委託するといった形も考えられるのではないかと思う。

次回に続く。