じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



08月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
§§
 8月14日早朝は前線の影響で、大気の状態が不安定になり、西日本から東北の各地で断続的に非常に激しい雨が降った。

 5月21日の環日食(岡山では大規模部分日食)【こちら参照】、6月6日の星の太陽面通過(日面通過)【こちら参照】に続いて、3個目の金となる星食に期待をしていたが、残念ながら獲得できなかった。

 金星は明るい惑星であるため、望遠鏡を使えば昼間に起こる金星食でも観測は可能である。しかし、明け方や夕方に見られる、条件の良い金星食は稀であり、前回は1989年12月2日、次回は2063年5月31日とのことである。2063年と言えば、私の場合、101歳まで長生きしないと見られない。このほか、ウィキペディアによれば、2044年10月1日には金星がレグルスを、2065年11月22日には、金星が木星を掩蔽(えんぺい、occultation)するという珍しい現象が起きるが、いずれも私の年齢では自分の目で見ることは殆ど不可能と思われる。


8月13日(月)

【思ったこと】
_c0813(月)TEDで学ぶ心理学(8)Sheena Iyengar: The art of choosing.選択の科学(7)選択肢は多いほうが良い、という思い込み

 アイエンガー先生が2番目に取り上げた「選択肢は多いほうが良い、という思い込み」に関してもう少し補足させていただく。ちなみに、この話題は、TEDのプレゼンの中では

Barry Schwartz(2005).The paradox of choice.

でも取り上げられており、こちらのほうが遥かにきめ細かく論じられている。シュワルツ先生のプレゼンについては、いずれ別途コメントさせていただく予定である。

 さて、アイエンガー先生が事例として挙げたのは、「選択の海」に投げ込まれた旧・共産圏の国の人たちの困惑であった。具体的には、コーラやスプライトなど全部で7種類のソーダを与えられたロシア人が「どれでもいいです 結局どれも炭酸飲料ですから」と答え、7種類の選択肢ではなく1つのカテゴリーにまとめていたという点であった。さらに、「選択の海」に投げ込まれた東欧の人たちからは、
  • 私には恐怖です。ジレンマを抱いています。選択するのに慣れてませんから。
  • 限度を超えている。こんなに多くの商品は必要ない。
  • 年配の世代は何もない社会から選択の社会に飛び込びました。彼らは、どう対応していいのか、学ぶ機会がなかったのです。
  • 20種類のガムなど必要ない。選択肢は要らないという意味ではないが、見せかけの選択肢が多いと思う。
といった声が寄せられたという。

 もっとも、アイエンガー先生は、決して、「選択の海」に投げ込まれた東欧の人々を気の毒がっているわけではない。それよりも、現在のアメリカ人が、あまりにも多くの選択肢を与えられていること、しかもそれらは、本質的な差違はなく、ラベルや大量のCMに翻弄されていることを批判しておられた。この点に関しては、上掲のBarry Schwartz(2005).The paradox of choice.のプレゼンが大いに参考になる。また、アイエンガー先生御自身の続編のプレゼン:

Sheena Iyengar(2011). How to make choosing easier.

で、大量の選択肢を上手に処理するワザが披露されている。

 以上が、「選択肢は多いほうが良い、という思い込み」の概略であるが、私にはどうも、「選択肢」という概念が、
  1. 物理的・化学的な特性によって客観的に区別可能な選択肢
  2. 行動とその結果(行動随伴性)によって形成される選択肢
  3. 選択肢を提供する側の視点と、選択する側の視点の区別
といった点で、混同されているように思えてならない。

 まず、選択肢というと、上掲1.のような「物理的・化学的な特性によって区別可能な選択肢」の数が客観的に決まっているように思われがちであるが、じつはそうではない。授業で私がよく挙げる例に「10円玉」の選択というのがある。発行年の異なる3枚の10円玉(例えば、昭和50年、昭和64年、平成10年)から示してどれか1枚を選んでください、と言った場合、客観的には3つの選択肢があるように思われてしまう。確かに、コイン収集のマニアであれば、発行枚数の少ないコインに興味を向けるはずで、そういう点では選択肢は3つということになる。ちなみに、上記の3枚のコインについて言えば、
  • 昭和50年:12億8026万枚
  • 昭和64年:7469万2000枚
  • 平成10年:4億1061万2000枚
となっていて、昭和64年発行の硬貨が一番稀少ということになりそう。しかし、その一方、コイン収集には興味が無く、10円玉は自販機でペットボトルを購入する時にしか使わないという人にとっては、3枚はどれでも良いということになる。この場合、形式的な選択肢は3つであるが、当人にとっての選択肢は1つにすぎないと言ってよいだろう。アイエンガー先生の事例にあった「7種類のソーダ」の場合も同様であり、アメリカ人から見れば選択肢は7つだが、当時のロシア人にとっては「ソーダを飲むか飲まないか」という選択にすぎなかったのである。であるからして、このロシア人はけっして「選択の海」に投げ込まれて困惑していたわけではない。

 そのあとの、東欧の人たちから寄せられた声も、「私には恐怖です。ジレンマを抱いています。」という声を除けば、決して「選択肢が多すぎて葛藤状態に陥っている」というほど深刻なものではない。

 何度か述べたように、選択肢が多すぎることの弊害については、Barry Schwartz(2005).The paradox of choice.のプレゼンでより詳細に論じられているので、いずれそちらのほうで詳しくコメントさせていただきたいと思う。今回ここで言いたかったことは、
選択肢の数というのは、物理的・化学的な差違によって客観的に決まるものではなく、行動とその結果(行動随伴性)によって形成されるものである。それらは、当事者(行為主体)のニーズに依存する。すなわち、当該ニーズによって規定される結果の差違が、物理的・化学的な差違を手がかりとしてもたらされるのであれば、弁別学習が形成され、選択肢の数は多くなっていく。当該のニーズからみて、同じ結果をもたらすのであれば、物理的・化学的な差違は無視され、1つの選択肢としてカテゴライズされるようになる。
という点である。

 次回に続く。