じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 各種報道によれば、気象庁は8日、九州北部、中国、四国、近畿地方が梅雨入りしたとみられると発表した。平年と比べ、九州北部と四国は3日、中国と近畿は1日遅く、昨年比では、九州北部と中国、四国が18日、近畿は17日それぞれ遅かったとのこと。岡山県岡山では、6月9日午前7時までの24時間に29.0ミリのまとまった雨を記録した。

 写真は梅雨入り宣言の前日の6月7日撮影した農学部農場の田んぼ。すでに水が張られ、ポンプの上には傘が取り付けられている。昨年の傘はこんな感じ

6月8日(金)

【思ったこと】
_c0608(金)金星の太陽面通過と行動分析学(3)「視点依存」と「視点フリー」の出来事

 昨日の続き。

 すでに述べたように、金星の太陽面通過は「約500年のうちに10回しか出現しない」、「次回は2117年12月11日」といった稀少な出来事と言われる。しかしそれは、地球上で観察される出来事としては稀であるというだけであって、仮に、金星の軌道と同じ平面にあり、かつ太陽からの距離が1天文単位(約1億4959万8千キロメートル)になるような人工惑星を飛ばしたとしたら、会合周期である583.92 日に1回の割合で見られるはずである。

 同じことは、皆既日食についても言える。月の影が地上に届くことは稀ではあるが、影自体は24時間、一年中、地球の近くの宇宙空間のどこかに達している。よって、高速の宇宙船でその場に達することができれば、任意の日時に皆既日食と同じ光景が見られるはずである。(地球の大気を通さないので、コロナの見え方はだいぶ変わってくるとは思うが...。)

 もっとも、ホンモノの皆既日食は、地上に大きな変化をもたらす。まずは、皆既食になった瞬間、夜のように暗くなるという現象である。これは、観察者が居ても居なくても起こる「視点フリー(視点独立)」の客観現象である。また、太陽が遮られることによって気温が低下したり、動物や昆虫の行動に異変が見られたりする。

 皆既日食よりさらに劇的な変化を起こすのは月食であろう。といっても、劇的な変化が起こるのは地上ではなくて月面上である。大気の無い月面で、太陽が地球の影で隠されることになれば、灼熱の太陽で熱せられていた砂礫や、あっという間に極寒に冷やされる。そして月食が終わった瞬間には再び灼熱の太陽に熱せられることになる。急激な温度変化による収縮や膨張は砂礫を細かく砕いていく。このことが、月の海の成因の1つではないか、その証拠に、月食の起こらない月の裏側には海が殆ど無いというような説も唱えられているほどである。

 以上述べたことは、行動分析学と全く関係なさそうに見えるが、好子や嫌子という出来事が、「視点依存」なのか「視点フリー」なのかという点では、密接に関連している。

 ここでもう一度確認しておくが、金星の太陽面通過、日食、あるいは月食といった現象は、「視点依存」の現象である。それがどれだけ稀有であるのかは、観察者がどの位置で観察するのかにかかっている。光の速さに近いような高速宇宙船があれば、それを移動させることで、いつでも好きな時にそれらを観察することができるのである。これに対して、皆既日食が地上に及ぼす影響、あるいは、月食の前後における月面の温度変化は「視点フリー」、すなわち、そこに観察者が居ようと居まいと関係なしに起こる物理現象である。なお、念のためお断りしておくが、「視点依存」の場合も、その現象の有無は検証可能であり、予測も可能であるという点で客観的な現象であることには変わらない。観察者の主観で見えたり見えなかったりする現象とは明らかに異なる。

 あまり論じられていないようだが、行動分析学でいう好子や嫌子にも、「視点依存」と「視点フリー」の2種類がある。私がよく挙げる例としては、美術館に絵を見に行くという例がある。その美術館にモネの睡蓮の絵が常設されていて、それを見るために頻繁に美術館に通う人が居たとする。その人にとって、美術館に行くという行動は

【直前】モネの絵なし→【行動】美術館に行く→【直後】モネの絵あり

という好子出現の随伴性で強化されていると言える。しかし、この場合の「出現」というのは、美術館に行く人の視点に依存した出現にすぎない。その人が美術館に行こうと行くまいと、モネの絵は最初からそこに常設されているのであって、現れたり消えたりするものではないのである。

 これに対して、自販機にお金を入れてカップコーヒーを飲むという出来事は視点フリーと言える。

【直前】カップコーヒーなし→【行動】お金を入れてボタンを押す→【直後】カップコーヒー出現

ボタンを押した人はもちろん、周囲に居る人も、さらに自販機の機械的記録システムにおいても、1杯のカップコーヒーが出現したということは客観的に確認される。

 行動分析学で、出来事の「出現」とか「消失」という場合、「視点依存」と「視点フリー」の両方は同等に扱われている。要するに、「視点フリー」であろうとなかろうと、とにかく行為主体者の視点に依存して出来事が出現したり消失することを重視しているという点では、行為主体者の視点本位の科学であると言うことができる。

 同じことは、行動についてももちろん言える。例えば、大相撲で力士Aが力士Bを押し出そうとして、力士Bのうっちゃりで敗れるという行動現象を分析する場合、力士Aの「押す」という行動と、力士Bの「うっちゃり」という行動はそれぞれの視点に依存した行動であると言える。それらは、観客の側からは視点フリーで観戦することもできるし、勝敗の有無が検証可能という点では客観現象であるが、力士各自の「押し出し」や「うっちゃり」という技能を高めるためには、それぞれの視点に依存して分析を進める必要がある。

 次回に続く。