じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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2011年版・岡山大学構内の紅葉(7)三色モミジ

 岡大・南北通りの一角にあるモミジ。日当たりなどによるものと思われるが、この時期は、青葉と黄葉と本来の紅葉が混じって、緑、黄、赤の三色に輝いている。

11月27日(日)

【思ったこと】
_b1127(日)日本質的心理学会第8回大会(2)「個性」の質的研究(1)

 昨日の続き。

 この学会は11月26日(土)から27日(日)まで2日間にわたって開催された。以前、この種の学会の参加報告・感想は、初日から順番に連載してきたが、このところ特に記憶の減衰が激しいこともあり、今回の連載は、一番最後のセッションから過去に遡る形で逆順に述べていきたいと思う。

 ということで、まず27日の14:45〜16:45に開催された、

委員会企画シンポジウム4:「個性」の質的研究〜個をとらえる、個を比べる、個とかかわる〜

という委員会企画シンポジウムを取り上げることとしたい。

 プログラム抄録集で、企画者代表の渡邊芳之氏は、個性について次のように述べておられる。【抜粋引用】
  1. 個性とは、「多数の『個』の中で、ある『個』だけが特有に示す特徴や構造」と考えることができる。
  2. 個性は単なる「個体差」や「個人差」ではなく、その個にある特有の環境や、個に特有の時間の流れを基盤に生み出された「構造」であるという点で、質的研究法によるアプローチを最も必要とする研究対象と言える。
  3. 20世紀の心理学において個性は、「ある個人変数の尺度値に示される個人差」や「尺度値による序列上での個人の位置」に還元されてしまった。そして、心理学における「個性の研究』は、ランダムサンプリングによって個をとりまく環境や個に特有の時間を相殺したデータから、「個人変数間の一般関係を解明する」ことを研究の中心とし、現在では心理学の中で量的方法にもっとも支配される研究領域となっている。そこには「個人変数」はあるが「個人」はない。
  4. 「一般化の探求」こそが研究であり、個に向かう研究は研究と言えるのかという見解は、質的心理学外では(内でも)依然根強い。これらの人々に対して、説得的な研究とは一体いかなるものだろうか。
  5. いや、一般化と個性の探求は、相反するものではないかもしれない。では、どのように二つの志向は整合するのか。
 この企画趣旨に関しては、いくつか留意すべき点があるように思った。

 まず、「個」を対象とすることと、個性を研究することは同一ではない。例えば、医師が患者に治療を行うという行為はあくまで「個」が対象となる。しかし、少なくとも西洋医学の場合は、まず、あらかじめ定められた診断基準に基づいて診断を行い、その上で処方を決定する。この場合、薬の効き方や副作用に注意を向けることは患者の個性の一部に配慮したことにはなるが、目的はあくまで有効な治療を行うことにあるのであって、個性(この場合は体質など)は治療に必要な情報の一部にすぎない。また、少なくとも西洋医学にあっては、薬の効き目については、まずは一般性が重視され、その一般性がうまく適用できないときに、個性に配慮するということになるのではないかと思う。

 第二に、上掲1の「個性」の定義:
個性とは、「多数の『個』の中で、ある『個』だけが特有に示す特徴や構造」と考えることができる。
を適用するためには、まず、多数の『個』の全体像を把握することが必要である。つまり「ある『個』だけが特有に示す」と主張するためには、“ある『個』”以外ではその特徴や構造が存在しないことを証明しなければならない。しかし、そのためには、当該集合(集団、社会、人類など...)の多数派に共通した特徴や平均像が示されていなければならない。であるからして、平均値であれ中央値であれ最頻値であれ、とにかく代表値なるものが無ければ、特定の個に特有であるという主張は成り立たないのである。「個」を研究対象にするというだけであれば、世の中で傑出した人物とか、自分自身や自分に特に関わりのある相手を対象とするというだけで理由は十分であるが、他者との比較の中で個性を研究するとなると、全体についての量的な把握は不可欠な前提になるのではないかと思う。

次回に続く。