じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 こちらの案内にある通り、岡山大学では10月22日(土)に、創立記念日に合わせて「ホームカミングデイ 2011」を開催する。大学構内には幟が立てられ、メイン会場の創立十周年記念館前には大型テントが設営されていた。

 創立記念行事は毎年行われており、一昨年は60周年記念にあたり陸上競技・朝原宣治氏の講演会などが行われた。昨年は全く記憶に残っていない。今年は、22日が土曜日ということもあって、かなり盛大に行われる模様である。

 私自身が興味があるのは11時から、または13時から行われる予定の大学探索ツアー(先着60 名)と、半田山森林散策ツアー(先着20 名)であるが、まことに残念ながら午後には雨が降る予報となっていて、予定通りに開催されるかどうかは微妙である。

10月21日(金)

【思ったこと】
_b1021(金)リビア・独裁体制の完全崩壊と国民の幸せ

 各種報道によれば、リビアの国民評議会は20日、カダフィ大佐を支持する部隊が最後まで抵抗を続けていた中部のシルトを制圧した。支持者とともに抵抗を続けていたカダフィ大佐は、拘束された後に死亡し、これをもってカダフィ派の組織的な抵抗は困難となり、8ヶ月にわたるリビアの内戦状態は収束に向かう見通しとなった。大佐の死亡から一夜が明けた21日、首都トリポリや西部のミスラータなどでは、イスラム教の金曜日の集団礼拝に多くの市民が参列し、40年以上続いた独裁体制が終わったことを祝っているという。

 ニュース番組の中でも市民が語っていたように、リビア国民にとっての最大の喜びは、独裁政権崩壊により自由を取り戻したことにあるようだ。もっとも、いくら自由になっても、それだけでは治安や経済的安定は保障されない。じっさい、この数十年余りの世界の情勢を見ても、独裁的政権が崩壊した後にめざましい経済発展を遂げた国というのはきわめて少ない。むしろ、独裁政権下では少なくとも表面上抑えられていた民族間、宗派間の対立が激化し、混乱が続くことも少なくない。じっさい、リビアの国民評議会においても、イスラム教色の強い勢力とより世俗的な勢力との間で、閣僚ポストなどを巡ってすでに対立が表面化しているという。隣国のエジプトでも、ムバラク政権崩壊後に、宗教間の対立や混乱が続いているようだ。

 このWeb日記でも何度か書いているが、私自身は、民主主義が絶対善であるとは思っていない。世襲制であっても、有能な国王が賢者を集めて、国民全体の幸福を考え、長期的視点に立って執り行うのであれば、議会制民主主義のもとで各勢力が凌ぎあい足を引っ張り合うような政治よりも遙かに優れた政治が実現するに違いない。もともと、ニホンザルの群れなどでは、有能なリーダー(「ボス」)とそれを支えるメスによって、統率のとれた母系社会が維持されてきた。ニホンザルの群れに民主主義を持ち込むことはできないのは当然であろう。

 ニホンザルより知能の高い人類は、何千年にもわたる歴史の中で、経済発展に伴う社会構造の変化にも依拠しながら、議会制民主主義というツールを確立した。しかし、それは絶対善ではない。人間というものは、いくら教育したり、宗教の力で統制しようとしたところで、結局は利己的主体の本質を変えることはできないのである。もちろん世の中には利他的・自己犠牲的に振る舞う人も皆無ではなく、先の大震災でも、自分だけ逃げれば確実に助かったはずなのに、他の人を助けに行って津波にのまれてしまった人たちが何人もおられたとは聞いている。しかし、そういうことが語り継がれたとしても、やっぱり、多数派が利己的主体であることは否めない。というか、人類は、利己的存在が群れを作り、何らかのツール(制度)のもとで個体間の衝突を回避する中で、他の動物や過酷な自然環境に打ち克ち、発展してきたと言うべきである。であるからして、いかに「有能な国王が賢者を集めて、国民全体の幸福を考え、長期的視点に立って執り行う」ことを目ざしたとしても、ゆくゆくは、個人の利益を優先する権力者が現れて、特権階級を形成しようとする。そして、誰かが楽をしようとすれば、別の人たちはその分、長時間働かされることになり、不平・不満が起こるようになるので、それを弾圧するための支配装置が作られるようになる。要するに、どうやって頑張ってみたところで、独裁的政権の中では国民の幸福を長期的に維持することはできない、それよりも、不満や不平は自由に発せられるようにしておいて、各種の利権の対立を議論の中で調整していこうというのが、議会制民主主義に到達した一番の理由であろうと思われる。

 もう1つ、人々が少しでも楽をしようとすれば、どうしても、モノを占有したり、他者の自由な時間の一部を拘束して自分のために働いてもらうことが必要になってくる。そして、それを合法的に行使するツールがお金である。お金が有効に機能するためには、どうしても、ある程度の格差(国内における収入、あるいは国家間)が必要、でなければ、人類愛を最高善とする互酬だけで成り立つ共同体を作るほかはない。残念ながら、現実には、互酬の共同体は作れないため、前者の、お金を前提とした格差社会が形成される。例えば、老後の賃貸収入を確保するためにマンションを購入するというのは、マンションというモノを占有することでそのマンションで生活することを必要とする若者から家賃を取ることを想定しており、そうするとその若者は家賃を支払うために労働をしなければならず、その労働の中には、マンション所有者へのサービスも含まれている、つまり「風が吹けば桶屋」みたいな話にはなるが、これは、自分のために働いてもらうことを確実にする合法的なツールということになる。

 もとのリビアの話から相当に脱線してしまったが、とにかく、人類という動物にとっては、独裁的政権という制度は、決して絶対悪ではないが、人類の本質からみて不適切な制度であることが歴史的に証明されてきた。そういう意味では、民主化が実現していくことは非常に喜ばしいとは思う。とはいえ、いかに公正な民主主義社会になっても、格差や利害の対立は不可避であり、経済的な安定が保障されるということは全くない。どこの国でもそうだが、政治制度を変えるだけでは何も実現しない。ありきたりの結論になるが、国民全体の幸せを向上させていくためには、結局のところ、国民一人一人の責任と努力が不可欠である。