じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 9月23日は秋分の日であった。秋分の日は太陽が真東から上り真西に沈むことになっているが、朝日や夕日が地上に降り注ぐ時間には太陽はもう少し空の高い位置にあるため、北半球ではいくぶん南側に片寄った方位にある。写真は24日早朝に撮影した、巨大「足長じいさん」(9月15日の日記参照)。道路上の白線が真西方向であるのに対して、影はやや右方向(北方向)を向いている。

 なお、昼の長さと夜の長さが12時間ずつになるのは秋分の日より少し遅い9月27日となる。岡山県岡山では日の出が午前5時55分、日の入りが午後5時55分となり、昼と夜の長さが同じになることに加えて、すべての「時」と「分」が「5」のゾロ目になる。過去日記での何度か取り上げたが、日の出日の入りがすべて5時55分になるのは、全国でも、岡山市や高松市など中国・四国地方の一部の地域に限られている。

9月23日(金)

【思ったこと】
_b0923(金)日本行動分析学会第29回年次大会(7)許可の随伴性・阻止の随伴性・ルール支配行動:青年・成人臨床事例からの再考(4)ルール支配行動の臨床的意味(1)

 昨日も述べたように、「ルール支配」は、ともすれば、直接効果的な行動随伴性で制御されている行動までを「ルール」に置き換えてしまい、行動の原因を内的、あるいは認知的な要因に求めようとしてしまう恐れがあるように思える。じっさい、「○○すれば××という変化が起きる(ので、○○する)」とか「○○しないと××という変化が起きる(ので、○○しなければならない)」は、ルールとも、「認知」とも言える。行動分析学としてはどう扱えばよいのだろうか。

 このことに関して企画者は、臨床的意味をふまえて、ルール支配から随伴性支配への修正という意義を強調しておられた。これは、「直接効果的な基本随伴性への回帰」と言ってもよいのではないかと思う。ここからは私個人の考えになるが、我々の生活はあくまで直接効果的な行動随伴性により支配されており、そこから逃れることはできないし、逃れる必要もないというのが行動分析学的人生観の基本である。行為の道徳的価値を強調したイマニエル・カントも、けっきょくは、特定の好子出現で強化されて行動していたと考えることができるし、断食、自傷、自死、自爆テロなど、いっけん基本随伴性に反応するように見える行動も、基本随伴性が般化したものと見なせる。しかし、随伴性というのは、久保田(2003)が「やってみなけりゃわからん性」あるいは「偶然結果決定性」と言い換えているように、自然科学で検証される因果性や法則性とは必ずしも同一ではない。偶然的な結果の随伴はしばしば迷信行動やジンクスを形成する。そしてそれらが言語化された時には強烈なルールとなりうる。じっさい、迷信行動やジンクスがいったん形成されると、それらはなかなか消去されにくい。とりわけ阻止の随伴性の場合は、行動することで現状を保持・保守するため、なかなか消去されにくいという特徴がある。であるからして、まずは、直接効果的な基本随伴性に帰るということが大切ではないかと思われる。また、この「直接効果的な基本随伴性への回帰」こそが、認知的な療法にはありえない、行動分析学的の真骨頂ではないかと私は考えている。

 余談であるが、旅行や、新しいことへのチャレンジで「自分探し」をしようとする人は少なくないが、「本来の自分」というものは決して、どこかに隠されているようなものではない。「自分探し」ということの本質は、現在の生活環境における「しがらみ」、つまり基本随伴性やルール支配から離れて、新たな随伴性環境の中に自分を晒すというところにあるのだ。ルールというのは、自分の行動と自分をとりまく環境の関連づけの上に成り立つものであるからして、旅行やチャレンジで環境要素が変われば、とうぜん、ルール自体も成立しなくなってしまう。(自分自身の病気や家族関係についてのルールのように、外部環境を変えるだけで変わるものではないものもあるが。)

 次回に続く。