じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 8月11日の午後、文法経1号館2階の心理学面接室で、某先生による補講(心理学実験調査演習)が行われた。耐震改修工事に伴う一時移転のため、この部屋の備品・資料は8月下旬には心理学研究棟5階に搬送される。来年4月下旬の竣工後、心理学関係の研究室・実験室等はすべて3階に移動することとなっているので、この部屋で正式な授業が行われたのはこの日が最後ということになった。


8月11日(木)



【小さな話題】

四国と本州は陸続きであった

 各種報道によれば、玉野市・石島(香川県直島町側は井島)の山火事は、発生から3日目の8月11日になって火勢が衰え、ほぼ沈静化した。岡山県によると、8月11日19時現在で島の面積の87%に当たる約237ヘクタールを焼失。但し民家への類焼などはないという。火災に遭われた島民の方々にお見舞い申し上げたい。

 ところでこの石島というのは、同じ島内に岡山県と香川県の県境がある珍しい島である。岡山県の資料によれば、島の概要は
玉野市胸上港(むねあげこう)の南約5kmにある。
 東端に戸尻鼻(とじりばな)、西端にヘラガ崎という小さな岬があり、この岬を東西に結ぶ稜線に石島山がある。この稜線を境として、南側が香川県直島町「井島(いしま)」、北側が岡山県玉野市「石島(いしま)」である。このため、歩いて岡山・
香川県境を越えることのできる珍しい場所となっている。
 元禄時代(1688年から1704年)に旧胸上村から移住、開拓が始まったが、現在、南側の直島町域には人が住んでいない。
 産業は漁業が中心で、特にノリの養殖がさかんである。
 また、島内からは石器や土器片が出土し、3基の古墳がある。
となっている。

 ウィキペディアでは「石島」ではなく、香川県の呼称「伊島」が見出しとなっていて、島の歴史が記されていた。それによれば、
1702年に直島と胸上村との間で境界論争が発生し、幕府が石島山から東西に境界を引く形で、北部を胸上領、南部を直島領と決めた。その当時は井島は無人島だった。このあと胸上村から3人の農民が井島に行き、石島山の北の麓を開拓した。その後も胸上村数人が井島に移住し、開拓に関わった。またその間には爆発的な増加率で増え、1702年に数人であった人口が1742年には56人にまで膨れあがっていた。
というのが県境の由来らしい。なお、このほか大槌島にも、岡山県と香川県の県境が存在している。

 自然地理的に言えば、本州と四国は完全に別の島であるが、行政単位で見ると、陸地の上に県境があって歩いて行き来できるというのは興味深い。

 元の話題に戻るが、岡山県で「石島」、香川県で「伊島」と呼ばれていることで、今回の山火事で呼称問題が起こりうると思ったが、高松と岡山の両方に本社を置いているKSBのニュースでは
石島の山火事はほぼ鎮圧 08/11  17:07

岡山県と香川県にまたがる石島で発生した山火事は11日、ほぼ鎮圧しました。島民にも安堵の表情が見られました。11日は午前5時過ぎから自衛隊や岡山県の防災ヘリがくすぶっている部分の消火活動を行いました。9日午後2時40分頃、岡山県玉野市と香川県直島町にまたがる石島の山林から火が出ました。火は島全体に燃え広がり、島の約9割にあたる234ヘクタールが焼けました。警察と消防では鎮火を待って実況見分を行い、火事の原因を調べる予定です。
となっていて「石島」の呼称のみを用いていた。高松市に本社を置くRNC西日本放送がどのような呼称を用いているのかは未確認。全般的には、人の住んでいる場所が岡山県のみにあるということもあって、「石島」呼称が優先されているようである。