じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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文学部中庭の新緑。落葉樹の新緑の季節は5月上旬頃であるが、クスノキなどの常緑樹は、春落葉を終えて新しい葉っぱに置き換わる今ごろのほうがむしろ美しい。なお、文学部では夏以降に耐震改修工事が行われ、その後は研究室の移転が行われるため、この部屋から眺める新緑風景はこれが最後ということになりそう。

5月27日(金)

【思ったこと】
_b0527(金)2011年版・高齢者の心と行動(9) 喜びに低級や高級の区別は無い(2)

 昨日の日記に述べたように、行為そのものには低級と高級の区別はなく、また、極言すれば、善と悪という区別すらない。但し、我々はみな社会の一員として生きており、その中では、その社会を発展させたり、構成員の協力を促進したり、構成員どうしの衝突を避けるための制度が(自然選択または為政者によって)定められており、それに従うことが強化され、それを破れば罰せられるような随伴性が用意されている。要するに何が善であり何が悪であるのかは、その社会が約束事として定めたものに過ぎない。とはいえ、それはおおむね、人類の長い歴史の中で改良に改良を重ねて築き上げられた知恵の結晶であるからして、よほどの弊害が無い限りはそれに従ったほうがよい。もちろん、時と場合によっては、既成の価値観を打破することのほうが、長期的にみて、その社会の改良につながることもありうる。

 善悪と同様、低級な行動か高級な行動かということにも本質的な区別はありえない。但し、世間一般では、浪費的、刹那的、利己的な行動は「低級」、その一方で、自己犠牲的に社会に尽くしたり、多大な努力を積み重ねて役に立つものを完成したり、いわゆる道徳的な行為をひたすら実践するような行動は「高級」と見なされることが多いようである。「善」と同様、「低級」であるよりは「高級」行動を推奨し、それをポジティブに強化する随伴性(制度)をしっかりと用意しておいたほうが、その社会にとって都合が良いからであろう。

 では、社会とは殆ど無縁な生活をしている人の場合、例えば、ロビンソン・クルーソーのような、孤島で独り暮らしをしている人が実在したとしたら、その人の行動には高級も低級という区別は全く無いのだろうか。

 このことを考える際には、まず、消去法として、個人の生活空間(←とりあえず、社会的評価と独立させて考えてみよう、という意味)において、「どういう行動は好ましくないか」という思考実験をやってみるとよいのではないかと思う。

 思考実験ではまず、その個人にとって、個体の健康や環境、衣食住の確保などにとって有害な結果を招くような行動を排除してみることから始めるとよいだろう。例えば、有害なモノを摂取するというのは誰が見てもよくない行動である。食中毒の原因になるものを食べていけないことはもちろんだが、中長期的に害をもたらすと想定される脂肪類、お菓子、タバコ、過度の飲酒なども排除していかなければならない。環境問題に関して言えば、自分の部屋をゴミで散らかしてならないのはもちろんだが、身の回りのあらゆる場所において、廃棄物を適切に処理し、必要に応じて再利用していくことは、結果的に、環境悪化を防ぐことになる。というようなことでまずは、限りなく「絶対悪」に近い行動を排除していく。

 次のステップでは、喜びは得られるが、何か虚しさを感じたり、葛藤に陥ったり、物足りなさを感じるのはどういう場合かを考えてみよう。

 次回に続く。