じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 6月21日は夏至(20時28分)。梅雨空が続いて、日の出や日の入りを眺めることが滅多にできない毎日であるが、この日はたまたま、北西の空に夕日が現れ、田んぼにもその姿が映っていた。

 なお、日の出がもっとも早いのは夏至より少し前、日の入りがもっとも遅いのは夏至より少し後にある。但し、冬至の前後と異なり、夏至の前後は曇りがちの日が多いことに加えて、日の出や日の入りの時刻の変化が比較的小さく、そのことが実感されることは少ない。こちらに図示があった。


6月21日(月)

【思ったこと】
_a0621(月)[心理]「ハーバード白熱教室」講義終了

 毎週日曜日の18時からNHKで放送されていた、

ハーバード白熱教室

が6月20日の12回目の講義をもって終了した。

 5月10日の日記にも記したように、この放送は初回分からきっちり録画・ダビングしているのだが、夕食時に断片的に視ている程度で、まだ講義全体を通して聞いたことがない。関連書(和訳)2冊を注文したところでもあるので、いずれ手元にそろった時点でじっくり「受講」させていただこうかと思っている。

 過去の哲学者が誰も気づかなかったような画期的な見解が示されるのかと期待していたのだが、うーむ、結局のところ、政治哲学の世界にも絶対的な真理のようなものは存在せず、その時代、その社会において、多元的な価値観を尊重しつつ、干渉しあい、できる限り整合性のとれた約束事を構成していくというほかはないのかなあ、というのが率直な感想。

 多元的な価値観、宗教、考え方が混在する現代において、相互に不干渉のまま共存し続ければよいという考えもあるが、サンデル教授は、
【同胞市民の道徳的、宗教的信念を】無視するのではなく、それらに係わり、関心を向け、時には挑み、競い、時には耳を傾け、学ぶことだ。

...
 しかし私には、他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切で相応しい理念のように思える。
というように説いておられた。昨年12月の「東北アジアの幸福観」で、著名な政治哲学者であるO氏が、「幸福について赤裸々に語ることが現代リベラルデモクラシーに必要」と説いておられたが、正義について、これと殆ど同じことを説いておられるようにも思えた。




 それより少し前のところで、サンデル教授は、ジョン・ロールズの
正義の観念は、自明の前提からは導き出され得ない。それは、多くの考慮事項が相互に支え合い、すべてが一つの首尾一貫した見方に整合することで、正当化される。
という言葉を引用しておられた。私はこの考え方にはほぼ同意できるが、「首尾一貫した見方に整合する」ということは殆ど不可能に近いと思っている。その時代の人々の多様な要求を調整し、不公平さを最小限にとどめるというところで精一杯。「首尾一貫」というのも論理的な一貫性というよりは、「よく似たことが起こった時には、できるだけ同じように対処する」という程度の一致性にとどまるのではないだろうか。

 このWeb日記を書き始めた13年前に、文句を言わせない分割法という話題を取り上げたことがあったが、政治哲学の原理というのもそれを超えるほどの力は持たないのではないかなあ、と思ってみたりする。




 余談だが、最終回の講義の初めのほうで、
本当に有徳な人は、もっとも遠い他人を助けるためにも友人に対するのと同様に駆けつける。
...
完全に有徳な人に、友人はいないだろう。
という、モンテスキュー(1689-1755)の言葉が引用された。

 これに対して、サンデル教授は、「人類愛は気高い感情だが、多くの場合、私たちはもっと小さな連帯で暮らしている。...人類愛は、一般論としてではなく特定の表現として学んでいる。」という形で、分け隔てをしない人類愛が人間世界では不可能であると説いておられたが、上記の「もっとも遠い他人」を、特定コミュニティ内に限定すれば、
  • えこひいきをする人。
  • 分け隔てなく、誰にでも等距離に接する人。
という2つのタイプはありうるのではないかと思う。ま、どっちにしても、「最も遠い他人を助ける」必要は無限に存在しており、どんな有徳な人も、限られた時間・空間の中で、そのうちの部分集合に対してしか尽くすことができない。もし「一切、分け隔てをしない」というのであれば、誰に対しても助けないという方針を貫くか、助けるかどうかをクジで決めて、「助けなさい」という結果が出た時だけ助けるという行動をとるほかはあるまい。現実的には、「たまたま」困った人に遭遇した時に手を差し出す、ということの実践以外には対処できないように思える。