じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 総社宮というと、総社市の名前にもなっている備中国の総社が有名だが、備前国にもちゃんと総社宮が存在する。ウィキペディアの当該項目では「1992年2月16日未明に放火により社殿が焼失し、その後2005年に復興奉賛会が発足され、社殿を再建する計画が進められている。」と記されているが、平成19年12月28日より本殿造営工事が開始された。工事予告看板では昨年12月28日に完成となっていたが、本殿周辺は未だ整備されていない模様。


2月28日(日)



【小さな話題】
チリ地震津波

 2010年2月27日午前3時34分(現地)、チリ中部でM8.8の地震が発生し、日本では津波に対する警戒が続いている(2010年2月28日20時現在)。

 チリ地震による津波と言えば、私の世代ではなんと言っても1960年5月22日(日本時間では23日)の「チリ地震津波」が思い出される。私自身は当時は小学校2年生であったが、この地震によりチリという国がどこにあるのかをはっきりと記憶した。

 その年であったか翌年であったか未確認であるが、家族旅行で九十九里浜・上総一ノ宮に海水浴に行ったことがあった。民家の玄関先には、海の水がこの高さまで達したことを示すスジが残っており、津波とはこんなに恐ろしいものかと実感した。

 地球の反対側にあるチリの地震がなんで日本に影響を与えるのかと疑問に思っていたが、その後、震源地から太平洋の各方向に拡散していった津波が、日本の沿岸で収束し、複合的な影響を与えるという説明を聞いたことがあり納得した。今回の場合も、長時間にわたり警戒が必要だろう。

【思ったこと】
_a0228(日)[一般]オリンピックは、個人を応援するのか、国を応援するのか(12)相対比較の功罪とライバル

 連載の最終回。今回は、相対比較の功罪とライバルについて考えてみることにしたい。

 すでに述べたように、オリンピックなどの各種スポーツ競技では、相対比較による順位争いをするのが一般的である。跳躍競技や投擲競技では測定による絶対比較も可能ではあるが、最後は順位という相対比較に置き換えられる。さらに、とにかく見た目で先に着いたほうが勝ちとする競走競技もあれば、審判が与える得点で争う競技もある。対戦型の競技の場合も、2者間で勝ち負けを決めるだけでなく、リーグ戦やトーナメント戦により、参加者全員の順位を決めようとする。

 スポーツ競技がここまで相対比較にこだわるのはなぜだろうか。

 あくまで推測だが、サルの群れの個体間に順位があるのと同様、人類の場合もとにかく、チャンピオンを決めて、その栄誉を称えるという習慣が祖先より受け継がれてきたのかもしれない。

 また、これもあくまで推測だが、競技をする選手にとっても、応援する側にとっても、単に「これだけの記録を出せた」というだけでなく、世界のトップアスリートが集う競技において上位の成績をおさめたという結果が与えられれば、それだけ付加価値がつく。その分、注目が集まるのでテレビ各局の視聴率が上がる(←であればこそ、メディアは過剰なまでに「メダル争い」に関心を向けさせようとする)。

 さらに相対比較であればこそ、ライバルが出現し、ライバルとの切磋琢磨により競技の質が向上するというメリットもある。

 もっとも、相対比較に弊害がないわけでもない。1つは、ライバルが存在するかどうかは、その年の運不運に左右されるという点だ。金メダルを獲得した選手と銀メダルを獲得した選手では、とうぜん金メダルのほうが遙かに多くの賞賛を受けることになるが、その年にライバルが不調であったために金メダルを取れた選手もいれば、日本選手としては歴代最高の実力を持ちながらも、たまたま同じ世代に100年に一人と言われるような強敵が出現したために銀メダルに終わってしまうということもある。要するに、相対比較である限りは、個人の努力が正当に評価されない場合もありうるということだ。

 もう1つ、ライバルであるからといって、必ずしも優劣を争う相手というわけではあるまい。「ランダムハウス英語辞典」によれば、「rival」の語源は“もとは「他の人と共同で川を使う人」(「(小)川」より)”だそうだ。お互いの能力を讃えながら切磋琢磨することだってありうる。フィギュアスケートであれ、体操競技であれ、棒高跳びであれ、勝敗という方式をとらずにお互いのすぐれた技を讃え合う形もとれるはずだ。