じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 12月7日の岡山は、最低気温が2.5度まで下がり、大学構内の花壇では初霜が観測された。なお12月8日の早朝は、7日よりは2〜3度高い気温で推移しており、霜は降りない見込み。

 観葉植物の一部をベランダに出したままにしているので、毎日の最低気温の予想が気になるこの頃である。


12月7日(月)

【思ったこと】
_91207(月)[心理]パーソナリティーの時間的変容を捉える試み−対話性と自己からの検討−(6)

 昨日の日記で、本題から外れつつ、行動分析学の中では個性はどう扱われるのだろうか、ということについて少しだけふれた。

 行動分析学の最も基本的な概念は行動随伴性にある。スキナー自身、彼の最大の貢献は随伴性の発見にあると言っているくらいであるから、この考え方はきわめて重要である。

 行動随伴性は基本的に個人単位で分析される。人間や動物には行動の変容の質に共通性があり、関数関係を導く研究が行われていることは周知の通りではあるが、行動はあくまで個体本位で分析される。であるからして、行動分析学は、行動の一般原理を発見することよりも、行動の原理がどの範囲でどのように働いているのかという生起条件を個体本位で検討する学問であるとも言われる。

 多くの人が同じように行動するのは、必ずしも一般法則を反映しているわけではない。みな、同じような環境で暮らしているために、同じような行動随伴性によって強化され、結果として一般性があるような特徴が見いだされているだけかもしれない。また、各種の集団や組織の中では、相互の争いを避け、互助や協力が円滑に進むような掟、習慣、文化等が形成され、それに従う行動が人為的に強化される。その結果、個人はますます同じようにふるまうようになり、あたかも基本原理が存在しているような錯覚をおこしてしまう。マズローが唱えた第3〜第5段階の「欲求」なども、もともと人間に備わっていたものではなく、その社会や集団で意図的に条件づけられた習得性好子の集合であるのかもしれない。

 もちろんそうは言っても、習得性好子の中味は個人によって多種多様である。このことが個体差をもたらすが、これはまた、「性格のちがい」として固定的に分類されてしまうことが多い。




 さて、それはそれとして、行動随伴性は、どこまで客観性を持つ概念なのだろうか。このことについては、行動分析家やそれを学ぼうとしている人たちの間でもかなりの誤解があるのではないかと最近思っている。結論から先に言えば、行動随伴性は、「第三者による操作」という点において、再現可能性、信頼性、確実性のある概念であるがそれ以上でもそれ以下でもない、と私は思う。例えば、ネズミがバーを10回押した時に餌粒を3個与えるという記述は、物理的特性(バーの大きさ、押す力、餌粒の重などさ)が明記されている限りにおいてはいずれも再現可能であって、いつどこで誰が実験しても同じような状況を作り出すことができる。この部分を「社会的に構成されている」と考える人はいないだろう。しかし、その餌粒が「報酬になっているかどうか」、餌粒3粒を6粒に増やしたら報酬が2倍になったのかどうかは何も保証されていない。それらはすべて個体の側で規定される。

 とにかく我々は、この地球上において、再現可能な何らかの操作を行い、それによって他個体の行動をある程度変容させることができる。だからこそ、行動随伴性は、学問としても、実践ツールとしても成り立つのである。しかしそれ以上でもそれ以下でもない。

 面接の中で言語報告を受けた場合、あるいは質問紙の回答を集計した場合は、常に言葉の問題がつきまとう。質問者の使う言葉と回答者が答える言葉は、一般的な意味や用法には共通性があったとしても、同一とはいえない。また、一個人独自の世界を第三者が使う言葉で表すことには限界がある。行動随伴性による分析は、必ずしも言語報告に頼らないという点で優れているとは思うが、限界がないわけではない。その限界をわきまえて慎ましく分析し、それなりの成果を出せばそれでよいのではないか、というのが最近の私の考えである。


 不定期ながら次回に続く。