じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 2009年版・岡山大学構内でお花見(73)時計台前の彼岸花の定点観察3年の比較。
 昨日に続いて、時計台前のヒガンバナの写真。2005年、2008年、2009年の写真を比較してみたが、今年が一番花が多かったことが分かる。


9月29日(火)

【思ったこと】
_90929(火)[心理]胃カメラの検査結果に動じない「肝っ玉」はどうすれば作れるか(5)

 昨日の日記でも述べたように、行動のレパートリーを多種多彩に備えていても、それだけで「動じない」境地に達することはできない。自分自身の老いや健康状態を客観的に知り、そのことを事実として受け入れる姿勢が必要ではないかと思う。

 いっぱんに人は、複数の選択肢から「任意に」選べる状態にある時は「自由である」と感じる。そして、選択肢が減り1つしかない時は、「不自由」あるいは「強制されている」と感じる傾向がある。しかし、現実には、1つの時間帯には1つの行動にしか従事することができない。本来、1つでもできることがあるなら、必ずしも不自由ではないのである。また、行動分析学から言えば、複数種類の行動のうちどれがどのくらいの確率で生じるのかということは、強化の原理によって予測・制御が可能であり、本質的な自由なるものはこの世には存在しないと考えることもできる。

 若い時には、A、B、C、D、Eという5種類のレパートリーを持っていた人が、歳を取って、身体機能の一部が衰え、C、D、Eの3種類しかできなくなり、さらにはEの1種類のみがやっとこさできる状態に陥ったとする。これは、確かに空しいことではあるけれども、1つの時間帯に1つの行動しかできないことを考えるならば、Eの道を究めることができればそれはそれで充実できるはずだ。

 では、ABCDEの5種類が3種類、さらに1種類に減るということはどう受け止めればよいのか。これは結局、我々の身体が、生物一般の法則にのっとって徐々に衰え、故障箇所が増えるということを必然として受け入れ、それに見合ったレパートリーを保持していくことにつきるのではないかと思う。中高生が見境のつかないことをすれば「もう子どもじゃないんだから」とたしなめられる。これと同様に、60歳代、70歳代になれば、30〜40歳代と同じことはできない。そのさいに「もう、若くはないんだから」とたしなめられるのは当然であり、自分自身もそのことを自覚し受容することが肝要であろう。

 世間には、60歳代、70歳代になってもなお、山登りや陸上競技に果敢にチャレンジする方がおられる。そういう方の努力は立派であるとは思うが、何も全員が、そこまで無理をする必要はない。限界を感じた時に別の選択肢に切り替えることは決して敗退ではない。

 そのいっぽう、まだまだできることがたくさんあるにも関わらず、「何事にも執着しない」などと悟りきってしまってご隠居じみた生活に埋没してしまうのはちょっと勿体ない気がする。スキナーが言う、「行動し、結果としてポジティブに強化されている」ことが生きがいであるという前提に立つならば、できることがあるうちは、あっさりとそれを放棄するべきではないという考えも成り立つ。

 次回に続く。