じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 農学部・農場の田んぼ。まだ青々としているが、そろそろ稲穂の季節を迎え、一面の鳥よけのロープが張られている。


8月31日(月)

【思ったこと】
_90831(月)日本心理学会第73回大会(6)「時間」と「空間」のなかで自己の変化を捉える(2)TEMの特長と論点

 昨日に続いて

S011 「時間」と「空間」のなかで自己の変化を捉える

というシンポジウムの感想とメモ。

 昨日も述べたように、このシンポは、2時間という限られた時間の中で4名から話題提供をいただくという盛りだくさんの内容になっていた。

 まず企画者から、「セルフ」はロックの頃から使われるようになりその後アメリカで研究対象として発展した近代のアメリカ的概念であるという導入があった。

 話題提供の前半は、対話的自己論の理論的装置としてのIポジションや、感情の対話的自己法に関する話であったが、今回は、連載執筆の時間の都合でこの部分は割愛させていただく。なお、対話的自己論については、3年前の日本教育心理学会第48回総会のシンポでも感想を述べさせていただいたことがある。




 さて、話題提供の3番目は、安田裕子氏による、


●不妊治療者の選択と径路−TEMを用いて−

という話題提供であった。この研究内容については

安田裕子.(2005).不妊という経験を通じた自己の問い直し過程:治療では子どもが授からなかった当事者の選択岐路から.質的心理学研究,4,201-226.

という論文で概要を拝読していたこともあって、話題提供の中味自体はよく理解できた。今回はTEMの視点を強調されたものである。

 ご研究は、ナラティヴ・アプローチと複線径路・等至性モデル(Trajectory Equifinality Model, 略してTEM)を柱として構成されており、まず、それぞれについて簡単な説明があった。

 インタビューなどにより過去の体験を尋ねる場合、論理実証的モードでは「それは事実かどうか?」という問い方をするのに対して、物語モード(ナラティヴ)では、「意味の行為」や「経験の組織化」に迫ろうとする。

 次に、TEMについては、8月26日の日記にも記した通りである。なお、安田氏は一貫して「TEM」を「Trajectory Equifinality Model」と表しておられるが、サトウタツヤ氏の少し古い文献では「Trajectory and Equifinality Model」というように「Trajectory」と「Equifinality」の間に「and」が挿入されている。どちらが一般的な呼称であるのかはよく分からない。なお、「等至性(Equifinality)」は、「finality」からの連想で、最終的な到達点や目的を連想してしまいがちであるるが、このモデルでは、「到達点」というよりも、途中の「通過点(複数の径路からそこに到達し、さらに分岐している通過点)」という意味で用いられているようである。

 さてTEMでは、基本概念として
  • 等至点(Equifinality Point, EFP):等至性を具現する行為や選択を示す。各人の多様な径路がいったん収束する地点。
  • 分岐点(Bifurcation Point, BFP):径路が分岐していくポイント。固定的、決定論的ではなく生成的に捉えられる。
  • 必須通過点(Obligatory Passage Point, OPP):論理的・制度的・慣習的には殆どの人が辿ると考えられる地点であり、社会的方向付けの存在を反映するとされている。
などが紹介され、ご自身の研究内容がこのモデルにどのように当てはめられ、そこからどういう成果が得られるのかということが解説された。

 結論的には、人生物語をTEMで描くと、「人の経験(筋立て)の多様性を、当事者とともにある時間に留意してプロセス(径路)として明示化できる」というメリットがあり、また単に体験談を分類整理するというのではなく、、そのプロセスにおける社会的な方向づけの部分を把握することで実践的な支援のあり方の議論につなぐことができる、というように理解できた【一部、配付資料からの引用】。

 以上についての私自身の感想を述べさせていただくと、まず、これまでの指定討論の中でも指摘されていたように、「複線径路」や「等至点」、「分岐」などが、一個人の中のプロセスであるのか、それとも、同じ社会に生きる複数の人間のあいだで「共有」されるものなのかという疑問があげられる。論理実証モードでは「こういうこともありうる」とか「ここは必ず通過する」というように主張できたとしても、個々人の物語モードでは、それらが「同じ」、「必ず通過するはずだ」、「ここではこういう可能性がある」というようには当てはめられないかもしれない。

 もう1つ、これは、今回の話題提供に対して、というよりももっと一般的なレベルでの疑問である。仮に我々の人生を、縦走やトレッキングのようなタイプの山歩きに喩えると、我々の人生は、どの頂上をいくつ制覇したとか、峠の分岐点でどちらの登山道を選んだのかというような、「ピークと分岐」だけで構成されるような物語では必ずしもない。むしろ、あまり景色のよくない平坦な道や、道ばたで出会った花に癒されるといった径路自体のほうが重要な意味をなしているかもしれない。ピークや分岐ばかりに目を向けてしまうと、日々の重要なプロセスが欠落してしまうのではないかという気がしないでもない。

 さらに言えば、我々の人生は、「分岐点における重大な選択」によって変遷しているように見えるけれども、それは大部分、後付けの解釈に過ぎないかもしれない。行動分析学的に言えば、日常的に強化、弱化されていることの積み重ねが「選択」という結果につながっているのであって、その部分に当事者が気づいているかどうかは確証できない。また、当事者にも気づかないような偶然的で微小な変化が、その行動を増やしたり減らしたりする強化・弱化のスパイラルの起点になる場合もある。こういう部分は、なかなか物語化できないかもしれない。


 次回に続く。