じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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§§ 2009年版・岡山大学構内のキノコ(3)オオシロカラカサタケとホンモノの傘

 岡山はこのところ梅雨の中休みでクマゼミが鳴き出しているところであったが、7月8日の午前1時台から雨が降り出し、このあと7月14日までの連続7日間、雨マーク入りの予報となっている。

 写真は、農学部農場の田んぼの配水ポンプを保護する傘と、定点観察しているオオシロカラカサタケの菌輪(写真左)。このキノコの傘は直径20cm以上になるが、やはり、ホンモノの傘の大きさには及ばないようだ。


7月7日(火)

【思ったこと】
_90707(火)[心理]お金と消費と広告の心理学(4)

 昨日までの日記で強調してきたように、お金の本質的な機能は、
  • 他のことをしたいと思っている他人に
  • あえて一定の時間を割いて
  • 自分や自分の属する集団のために
  • 行動してもらう
という「使役」の力にあると私は考えている。無人島に漂着して独り暮らしを始めた場合、あるいは、軍隊や原始共産主義的なコミュニティや山奥の集落や福祉施設内などのように、共同作業が組織的に行われていたり、互助や奉仕がきっちり確立している集団・社会においてはお金は用をなさない。また、仮に全員がお金持ちになって、誰一人として他人のために働こうとしなくなれば、お金はたちまち価値を消失する。

 このように考えてみると、お金で他人を動かすのと、鞭や銃剣で奴隷を無理やり働かせることとの間には本質的な差違は無いようにも見えてくる。もっともそこには程度の差というものがある。こちらの論文にも記したように、他人を動かす主要な手段としては、
  1. 働いてくれたらお金を支払う(=好子出現の随伴性)
  2. 働いてくれる限りはお金を支払う。しかし、ちゃんと働かなければクビにする(=好子消失阻止の随伴性)
  3. 働かないと鞭で叩かれる。働くことで、鞭という嫌子を回避できる(=嫌子出現阻止の随伴性)
があるが、このうち1.の随伴性で強化されている限りは、その人は自由な意志で働いていると感じる。しかし、格差社会の中で2.の随伴性で強化されている人は、3.の奴隷と同様に、無理やり働かされていると感じることになる。


 一昨日の日記で、
...貧富の差がなくなり、かつ皆がボランティア的に助け合って生活していくようになれば「お金」は要らなくなるのか? 私はその場合でも、「分業化が進んで自給自足が困難な社会」として発展していく限りにおいては、お金は有用であろうと考えている。
と書いたが、現実社会は、世界はもちろんのこと、日本国内においても、貧富の差が解消しているとはとうてい言えない。

 上記1.のような「自由意志で働いている」と感じられる条件が整うためには、まずは、「自給自足の生活をするか、分業の一端を担うか」という選択の自由が保障されていなければならない。自給自足ができている人が、ゆとりができた時間を使って他者へのサービスを提供したり、分業に従事し、かつ、それをやめたくなった時にはいつでもやめられるというのであれば、1.は満たされていると言えるだろう。しかし現実には、契約を打ち切られた派遣社員には、自分で畑を耕して食料を確保するというような自給自足の場は全く与えられていない。食料を手にしようとするにはまずお金が必要であり、そのお金を得るために、食料生産のための労働ではなくて、職探しのために奔走しなければならない。日々の体力を使い切るほどに職探しをしたとしても、そこからは何も生産されないのである。




 しかし、お金が使役機能としての価値を保ち続けるうちはまだマシである。世の中には、交換価値と使用価値が乖離し、一日中パソコンの前に座って投資(投機?)にあけくれるだけでも賃金労働者の何倍、何十倍もの利益をあげられる人がいるという。そういえば、本日のアサヒコムのニュースの中に、

FXの倍率規制強化へ 業者反発「顧客離れる」

というような記事があったが、私から見れば、あんなものはバクチ、さっさと規制してしまえばよい。そもそも、外国為替の変動などというのは、何も生産していないし、誰かにサービスを提供するものではない。娯楽ゲームの範囲ならともかく、本来の投資とは無縁のものである。ちなみにウィキペディアでは、投資は次のように定義されている。
投資(とうし)とは、主に経済において、将来的に資本(生産能力)を増加させるために、現在の資本を投じる活動を指す(現代において、生産能力の増加しない商業活動はこれに含まない)。...
 上掲のアサヒコム記事は「個人投資家に人気の外国為替証拠金取引(FX)について、金融庁が大幅な規制強化に乗り出す。...」という書き出しになっていたが、私から見れば、高倍率の外国為替証拠金取引に手を出すのは「投資家」ではなくて「博打打ち」にすぎない。ま、現代社会の「投資」自体が、企業の成長を見込んだ投資ではなくて、株価の値上がりとそれによる差益をあてこんだ投資と化していることのほうが問題であるかもしれないが...。


 次回に続く。