じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 2009年版・岡山大学構内でお花見(39)クスノキの花

 春落葉(楽天版2009.4.14.)の終わったクスノキ。地味ながらいっぱい花を咲かせている。


5月11日(月)

【思ったこと】
_80511(月)[一般]暗黒に支配される宇宙(2)宇宙マイクロ波背景放射

 昨日に続いて、日曜日午前中に視聴した、

●NHK教育(デジタル教育3):楽しむ最先端科学「暗黒に支配される宇宙」

という番組についての感想。

 私が見始めた時にはちょうど、ビッグバンがどのように証拠づけられたのかという話題が取り上げられていた。そのいちばん有力な証拠は、宇宙マイクロ波背景放射であるという。要するに、いっぱんに、外からエネルギーが加えられない状態で気体が膨張すると温度は下がる。それと同じように(←単なるアナロジーか、同一法則に依拠しているのかはよく分からなかった)、その温度が冷えているということは、宇宙が高温高密度の状態から爆発し、膨張を続けていることの証拠になるということらしい。

 講演では「ガモフは正しかった」というような見出しがつけられていたが、念のためウィキペディアを参照してみると、
  • 1927年にベルギーのジョルジュ・ルメートルは一般相対論のフリードマン・ロバートソン・ウォーカー計量に従う方程式を独自に導き出し、渦巻銀河が後退しているという観測結果に基づいて、宇宙は原始的原子 (primeval atom) の「爆発」から始まったというモデルを提唱した。
  • 1929年、エドウィン・ハッブルがルメートルの理論に対する観測的な基礎付けを与えた。彼は地球に対して銀河があらゆる方向に遠ざかっており、その速度は地球から各銀河までの距離に比例していることを発見した。この事実は現在ハッブルの法則として知られている。
  • このアイデアを説明するモデルとして、対立する二つの可能性が考えられた。1つはルメートルのビッグバン理論で、ジョージ・ガモフがその説を支持し、発展させた。もう1つの可能性はフレッド・ホイルの定常モデルである。このモデルでは銀河が互いに遠ざかるに従って新しい物質が生まれ、これにより宇宙の物質密度が一定に保たれるとする。このモデルでは宇宙はどの時刻でも大まかには同じように見えることになる。
  • ルメートルの理論にビッグバン (Big Bang) という名前を付けたのはホイルで、1949年の BBC のラジオ番組 The Nature of Things の中で彼がルメートルのモデルを "this 'big bang' idea" とからかうように呼んだのが始まりであるとされている。
 このことで初めて気づいたのだが、私は、ビッグバンの「バン」は「burn」であろうと思い込んでいた。そうか、もっと瞬間的なドカンという感じだったのね。

 なお、ウィキペディアの当該項目では、ビッグバンの観測的証拠としては、「宇宙マイクロ波背景放射」のほか「ハッブル則に従う膨張」や「軽元素の存在比」が挙げられている。私が小中学生の頃は、もっぱら、「ハッブル則に従う膨張」を根拠に分かりやすく解説されていたように思う。

 また、同じくウィキペディアの当該項目によれば、ビッグバンは現在のところ、「物理法則の普遍性」、「宇宙原理」、「コペルニクスの原理」という3つの仮定に依存している。このあたりの詳細はよく分からないが、例えば「物理法則の普遍性」を外してしまうと、宇宙の進化の仕組みを、講演会場で行われるデモ実験や、日常生活で体験できる現象(霧、光、音など)との類似性で理解することが困難になる。

 それと、この3つの仮定の代わりに、「神がすべてを支配する」という仮定を置くこと自体は必ずしも否定されるものではないと思う。しかし、仮に「神による支配の法則」があったとしても、それが、我々が検証できる物理法則と異質のものであったとすると、人間はその「神の法則」をいかなる形でも記述できないし、実証もできないし、予測や制御に利用することもできない。結局のところ、「神による支配の法則」というのは、仮定したところで何の役にも立たない。ちなみに、人間が信仰する多くの宗教では、「物理法則の普遍性」の代わりに、「人間の姿や形や行動の普遍性」が仮定され、神様の形も、天国での生活ぶりも、地上世界と大して変わらないということが仮定されているようである。




 番組や関連サイトによれば、ビッグバンは137億年前に始まり、その38万年後には温度低下によって電子と原子核が結合して原子が生成されるようになり、光子は電子との相互作用をまぬがれ長距離進めるようになった(=「晴れ上がり」)などと言われていた。また、我々が観測可能な「宇宙の果て」は137億年前の宇宙の晴れ上がり直後の様子であり、宇宙の大きさは、共動距離(Comoving distance)としては約470億光年と推定されているという。この種の話を聴いていていつも分からないのは、時間とか距離というものが、どういう物差しで測られるものなのか、それとも何かの仮定を置いているのかということである。ふたたび、ウィキペディアの当該項目を閲覧してみるに、
...まとめると、今我々が見ることができる最も背後にみえる光は、約137億年前に約4000万光年離れた空間から放たれた光である。そしてその空間は現在470億光年先にあり、光は137億年かけて137億光年の道のりを旅してきたということである。わずか4000万光年の距離を光が進むのに137億年もの時間を費やしたのは宇宙の膨張が地球への接近を阻んだためである。これは、流れの速い川を上流へ向かう船がなかなか前に進めないことと似ている。
というようなことが記されているが、その4000万光年離れた空間は、現在はもっと遠くに行ってしまっているはずで、もう、何が何だか分からない。過去の残像しか観測できず、追っかけることもできず、今となってはその対象と何の関わりも持てないというのであれば、それは、死んでしまった人と同じことである。つまり、「我々は、生きている宇宙に囲まれて生きている」というのと「我々は、すでに消滅した、死んだ宇宙に囲まれて生きている」と言っているのは、殆ど同じであるということになる。遠くに離れていく空間がいまなお存在し「生きている」であろうと信じる唯一の根拠は「我々だけが唯一生き残っていると考えるのは合理性がない」ということに尽きるのではないかと思う。

 このことに限らないが、宇宙に関する諸々の話というのは、我々の日常体験にある程度類似している限りは「凄いなあ」という感動をもたらすが、あまりにもとらえどころが無いレベルに達してしまうと、もうどうでもよい、そんなことより、目の前の鉢花の世話でもしていたほうが楽しいという気がしてくるところもある。


 次回に続く。