じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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時計台前のアメリカフウの新緑

 朝7時半頃の時計台前の新緑。


4月23日(木)

【思ったこと】
_90423(木)[一般]裁判員制度について考える(5)国民の関心の高い重大な事件とは何か?

 裁判員制度に関して私が最も疑問に思う点の1つは、なぜ、裁判員が、殺人や放火、身代金目的誘拐などの凶悪事件を扱わなければならないのかということである。これらの事件は確かに重大であり、被害者遺族の無念さは十分にわかるけれども、我々の身の回りでそんなに頻繁に生じるものではない。我々の生命を脅かす恐れがあるのはむしろ、交通事故、強盗、食品、環境汚染などに絡む犯罪、違反、過失、事故などの諸問題ではないだろうか。

 裁判員がどのような事件を扱うのかについて、裁判所の説明サイトでは、
  • 人を殺した場合(殺人)
  • 強盗が,人にけがをさせ,あるいは,死亡させてしまった場合(強盗致死傷)
  • 人にけがをさせ,死亡させてしまった場合(傷害致死)
  • 泥酔した状態で,自動車を運転して人をひき,死亡させてしまった場合(危険運転致死)
  • 人の住む家に放火した場合(現住建造物等放火)
  • 身の代金を取る目的で,人を誘拐した場合(身の代金目的誘拐)
  • 子供に食事を与えず,放置したため死亡してしまった場合(保護責任者遺棄致死)
を事例として挙げている。また、なぜ「重大」悪事件のみを扱うのかということについては、裁判所の説明サイトでは
刑事裁判は,全国で毎日行われており,平成18年には地裁だけで10万件以上の刑事事件の起訴がありました。すべての刑事事件に裁判員制度を導入すると国民のみなさんの負担が大きくなるため,国民のみなさんの意見を採り入れるのにふさわしい,国民の関心の高い重大な犯罪に限って裁判員裁判を行うことになったのです。
とされている。この文面だけから判断するに、要するに、
  1. すべての刑事事件を扱うと10万件以上となって国民の負担が大きくなりすぎる。
  2. 国民の関心の高い重大な犯罪に限って裁判員裁判を行えば、負担が減る。
  3. 重大な犯罪は、国民の意見を採り入れるのにふさわしい。
という理由から「重大」事件のみを対象とすることになった模様である。

 しかし、この「ロジック」は私には断じて納得できない。

 まず、国民の負担が大きくなりすぎるというが、負担には、時間的負担と精神的負担の両方がある。扱う件数が少なくても、事件が凶悪であればあるほど精神的負担は重くなる。このことでPTSDが多発した場合、国家はどうやって責任をとってくれるのだろうか。

 第二に、なぜ「国民の関心の高い重大な犯罪」イコール「凶悪事件」であるのか、私には全く理解ができない。例えば汚染米転売とか、産業廃棄物の不法投棄などの問題は、直ちに人の命を奪うものではないかもしれないが、国民の関心がきわめて高いという意味での重大性は、凶悪事件となんら変わるところがない。凶悪事件が関心を持たれるのは、むしろ、テレビがこぞって大騒ぎし、お茶の間で視るスリルサスペンス劇場と同じように視聴率を上げるからに他ならない。その証拠に、事件から1カ月、2カ月と過ぎて話題性が乏しくなると、ワードショー番組などはその事件に見向きもしなくなる。




 第三は、凶悪事件であればあるほど、「国民のみなさんの意見を採り入れるのにふさわしい」ということがどうして言えるのかという疑問である。

 日常生活で比較的頻繁に起こる事件というのは、我々の日常諸行動の原理で説明可能であり、かつ、刑罰という手段でコントロール可能な範囲に含まれていることが多い。もちろん大多数の人間は性善であって、刑罰がなくても、他人をなぐったり、物を盗ったり、ゴミをちらかしたりはしない。仮に何らかの経緯で「悪い心」が働いても思いとどまるはずである。このレベルの犯罪であれば、「国民のみなさんの意見を採り入れて」、つまり多様な経験や知恵を活かして、より適切に裁くということが可能であるかもしれない。

 しかし、真の凶悪事件というのは、日常諸行動の原理からはかけ離れ、刑罰だけでは抑止できない恐れが大きい。よく、殺人事件で、犯行当時の心理が異常であったかどうかが争われることがあるが、素朴に考えれば、人を殺すということはそれ自体が異常なのであって、異常でなかったと主張すること自体が定義上間違っているようにも思える。人を殺すというような異常な行動は、もはや、「国民のみなさんの意見」とか「市民の経験や常識」では説明不可能であり、別の原理(例えば、殺人者と同じ世界には生きたくないという被害者遺族の感情、「人を殺したら死んでお詫びをすべきだ」という一般ルールなど)を適用して裁くべきである。そのさいに裁判員が事件に関わらなければ裁けないというような必然性は全くない。

 汚染米転売や産廃不法投棄など、国民生活に直接関わる事件に裁判員が参加するということであれば、私も真っ向から反対するものではない(但し、その場合でも、裁判員になるかならないかは、候補者自身が任意に選べる権利を残すべきである)。件数が多すぎて、国民に時間的負担をかけすぎるというならば、一部の事件をランダムに選んでもよいだろう。あるいは、何も、具体的な個々の事件を裁かなくても国民の意見を反映させることはできる。代表的な事例を取り込んだ模擬裁判を行い、そこで得られた多数の参加者の意見をその後の判決や立法に反映させるというのも1つの道である。

 もとの凶悪事件の話に戻るが、裁判員制度が導入される前でも、国民は自由に裁判を傍聴できたし、判決内容について自由に意見を述べることができた。そうした声に耳を傾ける姿勢さえあれば、裁判員制度など実施しなくても、「国民のみなさんの意見を採り入れ」ることは十分にできるはずである。


 不定期ながら、この連載は続く。