じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



03月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
§§ 2009年版・岡山大学構内でお花見(11)アンズの花

文学部前に咲くアンズの花。写真上は以前からここにあるが、遅咲きの梅の花だと思っていた。たまたま実がなっているのを目にしてアンズであると気づいた。写真下は、平成18年度に大学院を修了された方が寄贈した苗木であり、植えられて2年目の今年の春にはたくさんの花をつけるようになった。


03月18日(水)

【思ったこと】
_90318(水)[一般]裁判員制度について考える(1)制度には反対だが、仇討ちの助太刀としての役割を果たせるならお引き受けしてもよい

 裁判員制度が今年の5月21日から実施されるという。私はこの制度には一貫して反対を表明してきたが、制度に反対であるという意見を持っていることと、裁判員に選ばれた場合に自分がそれを引き受けるかどうかということは別の話である。後者については、法律に従うという意味からも引き受ける義務があるとは思っているが、昨今、さまざまな凶悪事件が伝えられている中で、私自身、せめて、犯罪犠牲者の無念を晴らすための助太刀として加害者を極刑に処するために尽力できるのであれば、裁判員になってもいいかなあと考えるようになってきた。

 裁判員制度に反対する理由については別の機会に回すとして、今回は「助太刀」としての役割について先に考えを述べることにしたい。

 この日記でも何度か書いているように、私は、人を殺した者は、真にやむを得ない事情がある場合を除き、原則として死刑に処するべきであるという固い信念を持っている。というか、そもそも、人を殺したことを反省しているなら、自分から死んでお詫びをするべきである。反省をしているから無期懲役にしてくれなどというのは真の反省ではない。死刑を無期懲役に減じることがあるとすれば、それは、「死んでお詫びをしたい」と懇願している被告に対して、周りの人のほうから「その気持ちは分かるが、今回は生きて償いをしなさい」と諭す場合に限るべきである。




 死刑廃止論者の主張も分からないわけではない。以前、臨床心理系の研究会に出た時に、『恩讐の彼方に』などに言及して、死刑廃止論的なお考えを述べておられるのを拝聴したことがあった。その方の死刑廃止論というのは、「死刑は残虐だから」とか「国家が人の命を奪うのは間違いである」というレベルとはちょっと異なっていた。私が理解した範囲で言えば、要するに、加害者も被害者も一人の人間の体の一部のようなもので「共に生きて」いる。足がつまずいて転んで腕を骨折したとしても、腕の傷害の加害者として自分の足を責める人は居ない。たぶんそういう趣旨ではなかったかと思う。

 そういう話は分からないでもないが、世の中にはやはり、どうしようもない悪人というのも居る。善良な市民の命や生活を脅かす行為に対しては厳罰をもってのぞむしかないと思う。

 この日記でも何度か書いたが、日本では昔から、仇討ちや切腹を肯定する文化があった。忠臣蔵の話は今でも、テロではなく美談としてドラマや映画のネタとなっている。そうは言っても今の世の中では、現実には仇討ちのような殺傷行為は許されない。判決に基づく刑罰は、それに代わる役割を果たしているようにも思う。

 もちろん、被告を死刑にしたからといって犠牲者の命が戻るわけではないが、懲役刑、時には責任能力なしといった理由で無罪となった場合と比べれば、死刑判決は(犠牲者本人や遺族が死刑廃止論者でない限りは)多少なりとも無念を晴らすことにはつながると思う。

 いろいろな凶悪事件の裁判の報道でいつも腹立たしく思うのは、弁護側の態度である。もちろん、真に冤罪であった(=犯人は別人である)というならば徹底的に闘って無罪を勝ち取るのがスジであるが、明らかに被告が加害者であって、客観的に証拠があり、また加害者自身もその犯罪行為の事実をを認めているような場合には、まずは、犯罪行為を深く反省していることを前面に出して、判決を仰ぐべきである。現行の刑事裁判の性格上やむを得ない面もあるだろうが、やれ心神耗弱であったとか、発達障害であったとか、時には被告に不利な事実を隠して、とにかく手段を選ばずに無罪や減刑を勝ち取ろうとする。死刑が確定してもなお、執拗に再審の請求を出したりする。これでは、犯人は、死刑執行の瞬間まで、死んでお詫びをするという気持ちにはなれない。

 人間は誰でも最後は死ぬものである。「いかによく生きるか」ばかりでなく、「いかによく死ぬか」も合わせて考えていかなければ、往生際の悪い人生で終わってしまう。現行の刑事裁判の性格上難しいとは思うが、本来、被告側の弁護人は、手段を選ばずに被告を無罪にするということばかりに固執するのではなく、被告にとって何か「いかによく死ぬか」という道になるのかを十分に考慮した上での弁護に努めるべきであると思う。




 少々脱線してしまったが、私がもし裁判員に任命されて、凶悪な事件の審理にあたることになった場合は、弁護側の手段を選ばない屁理屈、あるいは、死刑廃止論に固執するような主張とは徹底的に対決し、被告を極刑に処するように全力を尽くしたいと思う。それでもって、その被告の死刑が確定した時には、その犯罪犠牲者の墓前に出向いて、仇討ちの助太刀としての報告をする。こういうことでよいというならば、私は、私自身が裁判員になることは厭わない。ま、こんなことを書いてしまうと、ホンマに裁判員に任命された時に、偏向裁判員であるという理由で弁護側から忌避を申し立てられるかもしれないが、その時はその時であくまで持論を展開するのみである。