じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 気象庁の記録によれば、岡山県南部では1月に入ってから25日朝まで、最低気温が氷点下となった日が7回に達している。昨年1月の氷点下の日数5回をすでに上回っており、かなり寒い冬となっている。

 しかしそんな中にあっても梅の開花は順調。1月15日の楽天版に掲載した早咲きの梅は、左の写真のようにすでに三分咲きから五分咲きになりつつある。


01月25日(日)

【思ったこと】
_90125(日)[一般]円独歩高からお金とは何かを考える(4)お金を殖やすとはどういうことか?


 昨日の日記の最後の部分で
ここで、小さな島に100人が暮らしており、人口やその年齢構成に変化が無かったと仮定してみよう。島の外の世界との交流が一切なかったとすると、その島で生産・消費できる量は限られており、増えも減りもしない。また、100人が相互に提供できる人的サービスの総量も限られている。そういう社会にあっては、名目上の賃金や物価がどのように変わったとしても、実際に何かを手に入れたり、何かのサービスを受けたりする時の困難度、冒頭の「占有」という言葉を使えば、資源の一部や他者の生活時間の一部を占有できる可能性というのは増えも減りもしない。よって、その島の住人が、昔より金持ちになったという証拠も、これから先金持ちになれる可能性もゼロに等しくて当たり前。もし、金持ちになれるとしたら、それは、科学技術の向上か、ライフスタイルの改善(←使用量の無駄を省くなど)などの場合に限られる。
というように書いた。但しこれは島民全体、言ってみれば「島民総生産」のようなものであって、個人単位では、昔より金持ちになることもあるし、貧乏になることもありうる。今回は、全体レベルではなく、個人レベルで、この問題を考えてみることにしたい。




 さて、我々は子どもの時から、お金を2倍にすれば、その分、欲しい物を2倍手に入れたり(例えば、アイスキャンデーが2本買える)、2倍のサービスを受けられる(例えば観覧車に2回乗れる)というような体験を通じて、貯金箱の中のコインが貯まれば貯まるほどきっとよいことがあるに違いないというように刷り込まれてしまっているところがある。

 しかし、これはあくまで、物価が安定しているという前提のもとで、数年間程度の短い期間の中で通用するローカルな法則にすぎない。

 かつて私自身が学生・院生であった頃、郵便定額貯金の利子が年8.0%、国債は年8.7%(確か、「ハチブナナリ国債」と呼んでいた)、電力債は9%以上などという時代があった。年利8.0%で半年ごとの複利ということになると、10万円の定額貯金は10年後には22万円近くになるというからこれはスゴイことであった。しかし、その一方、1974年のように、日本国内の消費者物価指数が1年間で23%も上昇するという年もあり、10年後に満期となった定額貯金の払い戻しを受けても、これで大金持ちとなったという実感は全くなかった。物価値上がりによる目減りを最小限にくい止めたという程度の印象であった。




 ここでもう一度、貯金箱の話に戻ろう。貯金箱の中味が100円から200円に殖えれば、1本100円のアイスキャンデーは2本買うことができるようになる。また、もし、友だちの太郎くんと一郎くんの貯金箱の中味もそれぞれ同じように100円から200円に殖えたとすると、3人揃って6本のアイスキャンデーが買えるようになるので、3人みんながちょっぴり贅沢をしたような気分になれるだろう。

 しかし、上掲の人口100人の島で、子どもたちの貯金箱の中味がみんな2倍になり、その一方、アイスキャンデーの在庫が30本しかなかった場合はどうなるか、おそらく、1本の値段が100円から200円に、あるいはそれ以上に値上がりするか、もしくは品切れで手に入らなくなるだけのことである。

 というような事例をもっと一般化してみるに、要するに、資源(物的資源・人的資源)が限られているという状況のもとでは、お金を殖やすというのは、総資源に対して自分が占有できる比率を高めるという意味であるということだ。

 貯金箱の中の100円が200円に殖えるというのは、100円玉が2倍に増えたから2倍金持ちになったというわけではない。100円しか持っていない他の子どもたちに比べて2倍になったということ、あるいは、子どもたちの小遣いの総資産に占める持ち金の割合が2倍になったということに意味があるのである。

 ここからいきなり話が大きく飛ぶが、老後の生活がどれだけ裕福であるかというのも、基本的には、その人が生きる時代において、その人が占有できる物的・人的資源がどのくらいの比率であるのかに依存している。例えばその人の年金額が200万円であるというのは、200万円という金額自体に意味があるのではなくて、その人が老後を過ごす時代において、働いて給料を得ている人たちがどれくらいの収入を得ているのかということとの相対比較の中で裕福さが決まってくるに過ぎない。




 以上述べたことは、何となく弱肉強食の生存競争を肯定しているようにも見えてしまうが、もちろん、これは、お金に頼って「豊かさ」を実現しようとした場合に限っての話である。すでに述べたように、例えば、あるコミュニティの中で資源をできる限り共有し、協働で生産し、また人的資源については無報酬のボランティア的な交流に委ねるということであれば、何も、他者との相対比較で優位に立つ必要はない。もっとも今の世の中、1つのコミュニティの中にどっぷり浸かるということは困難であるし、また、どんなに自給自足型のコミュニティであってもその国の制度を否定するわけにはいかない。けっきょくは、国全体や世界全体のことを考慮に入れながら折衷的に対応していくほかはあるまいと思う。

 次回に続く。