じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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§§  11月2日(日)朝8時4分頃の大学構内。連休の中日のせいだろうか、駐車している車は一台も見かけず。歩いている人も居なかった。もっとも、農学部構内ではこの日に収穫祭が行われており、同じ時間帯、準備の学生たちで賑わっていた。


11月02日(日)

【ちょっと思ったこと】

糸谷哲郎五段のスゴイ早指し

 毎週日曜日は、11時過ぎからNHK教育「NHK杯将棋トーナメント」を観ることが多いが、この日に勝利した糸谷哲郎五段の早指しには驚かされた。NHK杯将棋では持ち時間を使い果たすと一手30秒の秒読みに入るが、たいがいの棋士は28秒経ったギリギリのところでコマを動かす。ところが、この日の糸谷五段は、自分の番になると10秒も経たないうちに次の手を指してしまう。解説者の畠山さんも一手平均2〜3秒ではないかと言っておられた。

 さっそくウィキペディアの当該項目を参照したところ、糸谷五段は1988年の生まれでちょうど20歳になったばかり。輝かしい連勝記録があるほか、プロ入りから1年後の2007年に大阪大学文学部に合格。現役プロ棋士が日本の国立大学に進学したのは初めてのことであるという。プロ入り後の5月1日のデビュー戦(第78期棋聖戦)で破った橋本崇載が、終局直後に「強すぎる。怪物だ!」と叫んだことから、ニックネームは「怪物」とついたというが、確かにこれはスゴイ。次の対戦相手は?とトーナメント表を見たら、なっなんと、次は森内俊之名人(←2008年6月17日に羽生善治氏に名人位を奪われるが、トーナメント表では「名人」のままになったいた)ではないか。これは何が何でも見なければ...。

【思ったこと】
_81102(日)[心理]日本心理学会第72回大会(32)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(4)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(3)

 今回は少々脱線し、昨日の補足にとどめる。

 昨日も述べたように、従来の特性論理解では、人間の行動傾向を固定的に捉えすぎていたため、Mischel(1968)やMischel & Morf(2003)から、
  1. 現実場面への適用性、予測性が低い。
  2. 特性は行動パターンから推測されたものなので、説明変数には使えない
といった批判を受けた。しかし、状況を設定して「if-then」という記述をすると、それぞれ一貫した行動傾向を示す可能性が出てくる。この研究の方向の発展型の1つが、認知-感情システム理論(Mischel & Shoda, 1995:認知-感情パーソナリティ・システムモデルを略してCAPSモデルと呼ばれる)であるというように書いた。

 しかし、私の理解する限りでは、上記の批判のうちの1.の適用性、予測性の難点は当然改善されるとして(状況を設定したもとでの行動傾向なのだから予測性が高まって当然)、そのいっぽう「説明変数には使えない」という問題点は相変わらず残っているのではないかと思わざるを得ない。また、「状況を設定して「if-then」という記述をすると、それぞれ一貫した行動傾向を示す」と言うのは簡単だが、現実には、状況を同じように設定するというのはそう簡単にできることではない。現実の状況では常に、無限に近い要因が同時に作用しており、それが同じというのは、実は状況全体のうちの部分集合の同一性あるいは類似性に言及しているにすぎない可能性が高い。また、異なる2人においては、そもそも同じ状況なるものが存在するのかどうかさえ疑わしい。私の授業では毎年度、
行動の個体差は必ずしも性格の違いだけに帰するものではない。「同じ」環境にいる3人が異なる行動をすると性格の差であるように見られてしまうが、実際は、「同じ」環境の中の、それぞれの部分集合に関わっているだけであり、部分集合の違いが異なる行動を生みだしているという可能性も大きい。
ということを図解つきで論じているところであるが、前回の「親や先生から助言を受ける場合」や「友人やきょうだいから助言を受ける場合」にしたところで、AさんとBさんで全く同一の「状況」を設定することは不可能である。

 心理学の実験・調査では、こういう時しばしば、場面想定法という形で、仮想の「同一場面」を設定しようとするが、いくら言語的教示を構成する文字列が同一であるからと言って、回答者たちが想定する「場面」はあくまでオリジナルであって、おそらく個々人に固有の状況がくっついて想定されてしまう。であるからして、仮想の場面に対してAさんとBさんが異なる回答をしたからといって、直ちに「同一場面で異なる行動傾向を示した」という証拠にはならない。これは現実の場面で行動観察をしても同様である。現実の場面が客観的に同一であっても、AさんとBさんが関与している空間はその中の部分集合にすぎないからである。AさんとBさんが同じ部屋に居て大地震に見舞われた時、Aさんは机の下に隠れ、いっぽうBさんは食器棚が倒れないようにとそれを支えたとする。この2人の行動の違いは特性あるいは性格の違いのように見えてしまうけれど(しかも、状況を設定して「if-then」で記述されている)、じっさいは、Bさんだけが大切にしていた食器が食器棚の中にあり、これを守るために食器棚を支えたのかもしれない。つまり、見かけ上2人は「同じ部屋」という同一場面には居たが、関与(関心)空間という部分集合に「食器棚の中の食器」が含まれていたかどうかは2人において同一ではなかったのである。


 次回に続く