じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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岡山大学構内でお花見(54)コスモスのお花畑まもなく見頃に

楽天版の9/26付けと、9/27付けにコスモスの写真を掲載したところであるが、実は岡大構内でも写真のようなお花畑が見頃を迎えつつある。左の写真は9/24撮影。10月上旬には見頃を迎えるものと思われる。



9月28日(日)

【思ったこと】
_80928(日)[心理]五木寛之さん「凍河の時代を遊行する」(2)

 番組の後半では、五木さんから3つのキーワードが提示された。
  1. デラシネ(フランス語で根無し草)
  2. 歌いながら夜を往け(ゆけ)
  3. うつの時代


 1.の「デラシネ」は、ここでは、強制的に移住させられた「デラシネ状況」というような意味で使われているそうである。五木さんのご自宅にはに書斎は無く、85歳くらいまでは鞄1つさげて旅に出たいというお話であった。

 ちなみに私自身も、東京、京都、愛知、長崎などに転居した経験があり、また、人生の大半を下宿やアパートで暮らし、もはや持ち家に住みたいという気持ちが全く無いという点では根無し草的なところがある。

 2.の「歌いながら」は私の人生では全く関わりの無い部分であって、昔の歌を聴けば懐かしいとは思うが、ふだんは音楽無しの生活が続いている。




 3.の「うつの時代」については、もう少し詳しく考えてみる必要がありそうだ。

 まず、心理学や社会学であれば、直観ではなく、「うつの時代」と「躁の時代」を区別するのかといった客観的な基準が必要であり、その上で、実証的なデータを得てその真偽が判定される。番組で言及されたのは、最近の首相がみな苦虫をかみつぶした顔をしているというような事例であったが、たまたまそういう印象を与える顔ぶれが続いたからといって、国民全体あるいは世界全体が「うつの時代」を迎えているという証拠にはなるまい。また、病理モデルとしての「うつ」や「躁」を健常者一般人の行動特性に比喩的に用いることにも危険がある。仮に用いるにしても、私個人としては、和田秀樹氏の「メランコ」、「シゾフレ」のほうが、適合しているような気がする。

 ま、それはそれとして、五木さんは

雪道を歩くのと夏の草原では服も歩き方が違う。

という喩えから、「うつの時代の歩き方を」をと論じておられるようであったが、うーむ、うつの時代になったからといって、国民全員が揃って同じ歩き方をする必要があるのかどうかは疑問である。上記の「風に吹かれて 今の時代」とも共通するが、五木さんが描く生き方というのは、まず周りの世界が存在し、その世界に合ったピッタリの生き方をベストと考えているのだろうか。もちろん、私自身も、寒い冬の雪道と炎天下の草原では違った服を着て歩くだろうが、周りの人のファッションに目を向けたり、それに合わせようという気はサラサラない。要するに、「うつの時代」であっても「躁の時代」であっても、そういう文化には影響されず、最大限「じぶん流」で生きるというのが、私の人生の特色であると思っている。




 ところで、五木さんによれば、「うつの時代」という時の「うつ」には
  • 第一義 草木が茂っていくさま 
  • 第二義 フタをかぶされて発酵してメタンガスが出ている状態
という意味があるのだという。確かに、「鬱々」には「草木の茂っている様子」という意味があるし、「鬱蒼たる森林」という言い方もある。要するに、「うつ」というのは「虚ろ」や「空ろ」ではなく、その源に草木の逞しい生命力があり、しかしながら、それが一時的にフタをかぶされて発散できないような状態のことを言うらしい。つまり、今「うつ」の状態にあるというのは、全くの無気力状態ではなく、フタが外されるのを待ってじっとエネルギーを貯えている状態であると言えないこともない(これは、五木さんの言葉ではなく、私自身の表現)。それがどういう形で「うつの時代」に合った生き方になるのかは、種々の作品を拝読しなければ分からないところである。




 番組の終わりのほうでは「よろこびノート かなしみノート」についての言及があった。番組を拝聴した限りでは、この「よろこび、かなしみ」の発想のポイントは、
  • 小さなことで喜ぶ、小さなことで悲しむ
  • プラス思考とマイナス思考は車の両輪 
というところにあるらしい。要するに、世間では何かと、マイナス思考をプラス思考に切り替えることが推奨され、また、戦後の日本人はプラス思考の一輪車で坂道を駆け上がろうとしたところがあったが、喜びでばかりでなく、悲しみについても「自分の心が波立った」という体験を重ねることが重要であるという意味らしい。

 もっとも、一口に喜びと言っても、「おつりが多くきてうれしかった」程度の些細な出来事と、努力を重ねた末の達成では、喜びの質が違う。悲しみについても同様。当該の本を入手してからまた考えてみたいと思う。

 余談だが、人間の感情は決して「喜び」と「悲しみ」の2種類だけではない。例えば、ウィキペディアの当該項目では、心理学的な感情の分類として

喜び、驚き、恐れ、悲しみ、怒り、嫌悪

の6つが挙げられている。同じページには、「五情」、「三字経」、「六情」、「ナヴァ・ラサ (人間の9つの基本的感情) 」、「ダーウィンが論じた七つの基本的感情」などが紹介されている。上掲の五木さんの御著書を拝見していないので何とも言えないのだが、感情体験として求められるのは「喜びと悲しみ」の「両輪」だけなのか? それとも、時には驚き、時には恐れ、また時には怒るといったあらゆる感情体験を重ねていくことのほうが大切なのかは、もう少し考えてみたいと思っている。