じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 岡山大学構内でお花見(39)ヒマワリは東から眺めるべし

 6月18日の日記に写真を掲載した農学部構内のヒマワリがいよいよ見頃になってきた。ヒマワリはその名前の通り、太陽の方向を向く性質があるが、花が大きくなってくると、東〜南東方向に固定されることが多い。写真上は、東側から眺めたヒマワリで、だいたいこちらを向いている。写真下は、西側から眺めたところで、大部分は背中を向けている。なお、夕日が反射している建物は岡大・本部棟。


6月25日(水)

【思ったこと】
_80625(水)[一般]朝日新聞の「死に神」記事と死刑制度

 各種報道によれば、鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した朝日新聞の記事について、「全国犯罪被害者の会」は25日に記者会見を行い、同日付で朝日新聞に抗議文を送ったことを明らかにした。抗議文で同会は「法律に従って執行を命じたにすぎない法相を非難することは、法治国家を否定することになる」と批判しているというが、全く同感だ。

 鳩山邦夫法相はもとより、死刑判決を出した裁判官、死刑求刑をした検察官、そして、最終的に死刑執行に関わる刑務官に至るまで、誰一人として人の命を奪いたいとは思っていないだろう。みな、法治国家において正義を貫くために、私情を廃して、粛々と職務を遂行しているのである。そういう意味では、鳩山邦夫法相は、「死に神」どころか、正義の味方であると呼ぶべきである。むしろ、信条、宗教上の理由などで執行命令書の署名を行わなかった法相のほうが非難されるべきである。

 世の中には、種々の理由により死刑廃止を唱えている方があり、それぞれの御主張には納得できる点も多々あるけれども、そういった主張はあくまで一般論として、これから先の法制度の改正に向けて展開されていくべきである。すでに起こってしまった凶悪犯罪の裁判や、死刑が確定した人の執行について批判的行動をとると、逆に死刑廃止論の本筋が理解されなくなり、賛同者を得られにくくなるのではないかと思う。




 ここからは表題とは別の話題になるが、私は、個人的には、日本の切腹文化をもっと肯定的にとらえ、「死んでお詫びをする」という権利を加害者に認めるような制度があってもよいのではないかと思っている。いまの刑事裁判では、弁護側は、とにかく被告を無罪もしくは減刑にしようと、あらゆる手だてを尽くそうとする。もしそれが真に冤罪であるならばともかく、現行犯逮捕や、物的証拠が十分にあって本人も事実を認めているような殺人事件である場合は、まずは、加害者本人がその事件についてどのようにお詫びをしようと思っているのか、その素直な気持ちが活かせるような形で裁判を進めるべきだと思う。

 あくまで報道で伝えられる範囲からの印象であるが、いまの刑事裁判制度では、罪を素直に認めて厳罰を受け入れようとしている被告が居たとしても、弁護側が寄ってたかって「お前はそんなに悪くない、死刑は不当だ、責任能力は無かった」などと被告を言いくるめ、とにかく、刑罰を軽くすることだけに力を注いでいるような感じがしないでもない。これでは、せっかく反省と謝罪の気持ちを持っていた被告も、だんだんと、自分はそんなに悪くないという気持ちになってきて、重い判決はすべて不当判決、死刑は残酷だと抵抗しながら人生を終わることになりかねない。

 それよりも、裁判で自分の悪いところをすべてさらけ出して切腹を願い出たほうが、被告人にとってはよっぽど名誉であり、良い死に方を選べるのではないかと思う。助命とか減刑というのは、本人が口にする言葉ではない。本人が切腹を切望している時に、「いや、あなたはそんなには悪くない。何とかして生きてほしい」と周囲から嘆願するのがスジであろうと思う。

 なお、上に述べた「切腹」というのは象徴的な意味で使ったまでのところで、実際に、江戸時代の武士が行ったような「ハラキリ」を再現しろと言っているわけではない。一定年限内に自らの意志で執行日を定め、自分でボタンを押したら床板が開くというような自主執行型の刑のことを言う。

 なお、念のため断っておくが、「死んでお詫び」をしても殺された被害者が生き返るわけではない。それですべてが償えるわけでないのは当然である。