じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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3月24日(月)

 卒業式を前に、岡大・本部棟前のハクモクレンが満開となった。開花したのは3日前の3月21日



3月24日(月)

【思ったこと】
_80324(月)[心理]第13回人間行動分析研究会(8)行動分析学と社会構成主義(2)

 今回は4つ目の発表:

●行動分析学と社会構成主義:随伴性と遇有性をめぐって

について感想を述べたいと思う。なお、この発表の副題は予告では「不確実性の時代における「予想とコントロール」となっていたが、最終的には表記のように修正された。ちなみに当初の副題の「不確実性の時代」というのは、大澤真幸氏が説く「不可能性の時代」をもじったものではないか、というウワサがあった。

 さて、この4番目の発表は、発表者御本人も認める通り、まとまりに欠けていて、何が結論であるのかよく分からないとことがあった。短い発表時間の中に、盛りだくさんな内容を詰め込みすぎたためであろう。もっとも、発表の中にはいくつか、参考になりそうな貴重な情報が盛り込まれていた。

 まず、第一点は、行動分析学の基本概念である「随伴性」と社会学でいう「偶有性」の比較であった。ちなみに、発表者は、「有性」と表記しておられたが、Googleで検索する限りでは「有性」ではなく「有性」という漢字のほうが53000件も使われており、特に、茂木健一郎の関連サイトが目につく。いっぽう、「遇有性」のほうは、わずか663件しかヒットせず、しかも「もしかして: 遇有性」という表示が出ている。このほか、「社会学 偶有性」で検索すると6280件がヒットしているのに対して、「社会学 遇有性」は918件しかヒットしない。

 ということで、ここでは、大勢に従って、「有性」という表記を用いることとしたい。

 さて、発表者が指摘したように、行動分析学の基本概念である「随伴性」も、社会学や茂木氏が用いる「偶有性」も、同じ「contingency」という言葉に由来している。このうち「偶有性」は
  • 他の状態でもありえるのに、たまたまその状態でもある、という属性。
  • 「AではなくBでもありえた/BでもありえたのにAである」こと、つまり「可能だが必然でもない/必然ではないが不可能でもない」
  • 【発表者のレジュメから転載】
    • 社会学においては、contingencyとは、「遇有性」もしくは「不確実性」と訳されます。遇有性とは、「他でもありえた」ということです。従って、この言葉の反対語は2つある。ひとつは「必然性」=「そうであるほかない」。もうひとつは「不可能性」=「ありえない」。「必然性」と「不可能性」の両者の否定として、「遇有性」があります。そうすると「遇有性」というのは、「不確実性」ということと表裏の関係にあることがわかります。同じことを否定辞を用いて言えば「不確実性」となりますし、肯定的に言えば「遇有性」となる。
    • (ポジティブな意味での)<普遍性>は、すべての個人を貫く、内的な他者性、内的な敵対性によってこそ可能です。このことが意味するのは、<普遍性>は、すべての個人が己の根本的な遇有性を勇敢に引きうることから可能になる。それぞれの当事者が自分の奉ずる正義や価値観に固執するのは、それぞれにとっては、自身とは異なる「他なる立場」が最初から排除されており、自身の立場が必然―こうあるほかないもの―として現れているからです。(大澤, 2005; 87)
    • この「遇有性」と言う言葉は、社会学において重要であると見なされています。それは、遇有性という様相は、究極的には「私が他者でありうる」という感覚・体験をベースにしているからです。
というように定義されている。いっぽう、杉山ほか(1998)【杉山・島宗・佐藤・マロット・マロット(1998). 行動分析学入門. 産業図書.】によれば、行動分析学でいう「随伴性」は、
ある条件の下で、ある行動をすると、ある環境の変化が起こるという、行動と環境との関係
というように定義される。発表者はこれを、「ある結果が生じるまでのプロセスに対する言葉」と見なしていた。




 「随伴性」と「偶有性」を比較するというのはきわめて興味深い着想であるが、このことについてはまた別の機会に詳しく考察したいと思っている。ちなみに、私自身が理解する随伴性というのは以下のようなものである。

 まず、上記の杉山ほか(1998)の定義にもある通り、随伴性というのは、オペラント行動と、その直後に生じる環境変化との関係を記述したものである。そのさい重要なことは、行動とその直後の環境変化の間の因果関係は必ずしも前提とされていないという点だ。発表者のレジュメでは、必然性と不可能性の中間の不確実性の部分を肯定的にとらえたものが「偶有性」ということになるが、行動分析学でいう随伴性は、とにかく、行動の直後にある種の変化が生じるということが重要なのであって、それが必然的に起こっているのか全くの偶然によるものかは、第一義的な問題ではない。

 オペラント行動がどう強化されるか、あるいは弱化されるかということは、行動と結果(←ここでいう「結果」には、偶然に起こってしまった変化を含む)とのあいだの確率、遅延、結果の大きさによって決まる。結果が必然であったのか偶然であったのか、あるいは、結果が自然の法則により生じたものなのか第三者が意図的に付加したものであるのかということは、さしあたっては問題ではない。とにかく結果が伴えば行動は変わってしまうのである。なお、「不可能性」の場合は、必然、偶然いずれによる結果も伴わないのでその行動は消去される。

 「随伴性」の定義はそのようなものでよかろうと思っているが、同じように行動が強化されている場合でも、第三者から結果を意図的に付加されている状況が続くと、人はしばしば「他者からコントロールされている」と感じることになる。もちろん、あるコミュニティの中で生き続ける以上は、他者からの付加的な強化無しで生きるということはできないが、その程度の大小が、自由意志、主体性、相互依存といった感じ方に影響を及ぼしていくのは事実であろう。

 また、どんな自由人であっても、自然の随伴性から逃れることはできない。そういう意味では、人間にとって完全な自由などはありえない。人は、自然によって生かされており、また、ある程度は自然を手なずけて生きているにすぎない。

 いっぽう、「偶有性」については、勉強不足でよく分からないところもあるが、事故や災害といった大きな出来事が降りかかってきた時にそれをどう、ポジティブに取り込むかという点では意義深いものがあるようにもみえる。もっとも、「偶有性」を肯定的に取り込むプロセス自体も1つのオペラント行動であり、これまた「随伴性」によって強化されなければなかなか実を結ばないようにも思える。

次回に続く。