じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 旭川対岸(西岸)から見た、龍ノ口グリーンシャワー公園一帯の山。なお、「たつくち」の「の」は、公園や山の名前は「龍ノ口」というように「ノ」で表記しているが、八幡宮のほうは「龍之口八幡宮」というように「之」をで表すのが正式であるようだ。



3月9日(日)

【思ったこと】
_80309(日)[心理]「しなければならないことをする」と「したいことをする」(5)

 昨日の日記で、
 さて、ここで問題となるのは、「好子出現の随伴性」による強化と、「好子消失阻止の随伴性」による強化をどう区別できるかという点である。

 行動分析学では、行動の頻度や継続時間が重要な客観指標であるが、上記の場合、「労働」という行動自体は区別することができない。また、好子(強化子)も、ここではお金であって、区別することができない。どうすれば区別可能なのだろうか。
という疑問を述べた。これを解決するためのアイデアは、いくつか考えることができる。但し、以下に挙げるのは、あくまで例示であって、そのうちの1つだけが唯一正しいというわけではない。複数が成り立つ可能性もあることに留意されたい。

(1)行動しなかった場合に「平穏な状態」が保てるかどうかで区別する。
(2)人間に特有の現象。将来に悲観的な見通しを持つと「好子消失阻止の随伴性」のコントロールを受けやすくなる。
(3)結果には直後の変化と、ずっと先に生じる変化とがある。この長期、短期の組み合わせ方しだい。





 まず、上記のうちの(1)だが、そもそも行動随伴性という概念は、「行動した時に伴う結果」だけでなく、「行動しなかった時に伴う結果」をセットにして初めて定義できるものである。例えば、「働く→給料を貰う」という随伴性は、厳密には「働かない→給料を貰えない」とセットにして初めて定義できる。もし、働かなくても給料と同額の生活保障手当が永続的に支給されるのであれば、働くという行動は給料によっては強化されない。無報酬でもなお働くという人がいたとしたら、その場合は、働くことの意義、社会的貢献、周囲からの感謝、仕事自体の面白さ、目標達成、...といったように、給料とは別の好子によって強化されていると考えるべきであろう。

 さて、(1)の、行動しなかった場合に「平穏な状態」が保てるかどうか、を「働く」と給料の関係にあてはめてみよう。仮に、その人が毎月30万円ほどの不労所得があって、とりあえず、働かなくても衣食住に不都合がない最低限の生活が保たれていた場合、これは「平穏な状態」と呼ぶことができる。その状態で、さらに働いて20万円の給料を受け取るとなれば、

働く→平穏な状態を保ちつつ、さらに給料を貰う
働かない→平穏な状態は保てるが、給料は貰えない

となり、働くという行動は純粋に「好子出現の随伴性」で強化される可能性がある。

 いっぽう、そのような不労所得が無く、働いて、やっとのことで20万円の給料を得ている人にとっては、

働く→給料を貰うことで、最低限の「平穏な生活」が保たれる。
働かない→給料を貰えず、最低限の「平穏な生活」が保たれない。

となる。後者のケースでは、働かないということは、衣食住の基本環境を悪化させることになり、ついには飢餓や病気といった嫌悪的な事態を出現させてしまうわけだ。

 もっとも、もし本当にそのような嫌悪的事態が起こってしまうならば、それはもはや、「好子消失」ではなく「嫌子出現」と呼ぶできであろう。つまり、諸々の環境変化(嫌子出現)を阻止する随伴性によって働くことになるのである。この随伴性は、鞭で叩かれないがために働く奴隷や家畜の場合と本質的に変わらない。

 この(1)のアイデアの問題点は、「平穏な生活」が客観的に定義できるのかどうかということにある。科学技術の進歩につれて生活水準が向上すると「平穏な生活」水準も変わるものなのか、あるいは、周囲の人々との相対比較によって決まるのか、それとも、どの時代にあっても変わらない、人類普遍の「最低限の平穏な生活」を想定すべきなのか、このあたりについてさらに詳しく検討していかなければならない。

 次回に続く。