じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 数日前の話題になるが、岡大の五十周年記念館の前にとつぜん「赤いカバ」が現れた。就職関連の催しがあったので、地元企業担当者が宣伝車に乗ってこられたものと思われる。私が生まれた頃は、もっとカバらしい車も走っていたようだ。



2月20日(水)

【ちょっと思ったこと】

はしか抗体検査

 大学で表記の検査があったので、検査料1000円を払って採血してもらった。幼稚園か小学校低学年の頃に罹ったような記憶があるのだが、はっきりした証拠が無い。

 検査では、職員定期健診の際と同じくらいの、かなりの量の血を抜かれた。うーむ、あんなに血を採るなら、ついでにコレステロールの検査もやってくれれば良かったものを...。

 それと、検査が終わってから思い出したことだが、そういえば、子どもがはしかに罹った時に、車に乗せて小児科で診て貰ったことがあった。その時にうつらなかった以上、改めて検査をするまでも無かったかなあと思ったが、ま、老化により抗体価が下がっている恐れもあるので、受検しておいても悪くはないか。

追記]
検査の結果は、7段階の抗体レベル7のうちの最高レベルの「512倍以上」と判定された。
【思ったこと】
_80220(水)[教育]大学教育改革プログラム合同フォーラム(12)GP事業の成果と今後の展開(3)

 引き続き、フォーラム2日目、

パネルディスカッション:「GP事業の成果と今後の展開」

についての感想。

 アンケート調査結果の紹介に引き続いて、審査に携わって来られた4名の先生方から、GP事業の成果と問題点、今後の課題について、それぞれのお立場からのご意見が表明された。

 今回のフォーラムは文科省主催のものでもあり、パネルディスカッションといっても「事業は大成功であった」といった自画自賛に終わってしまうのではないかとたかをくくっていた向きもあったが、じっさいの中味は違っていて、問題点についてもかなり詳細に言及され、また、フロアを交えて、けっこう辛辣な議論が展開された。

 その中で指摘された問題点(あるいは論点、課題)を記憶に残っている範囲で列挙すると、
  • 組織的な教育改革に貢献したが、学科完結型にとどまっている恐れ。
  • 医療・保健、地域連携、工学、外国語、理系基礎領域では成果があったが、人文社会系や地方の小規模大学では採択されなかったケースもあり、大学の地域間格差や地方大学弱体化をもたらした恐れ。
  • 力点をどこに置くか。教育の過程の半ばで優秀学生を「選抜」し国際的な競争に耐えうるエリートを養成していくべきか(=競争的教育課程)、落ちこぼれを無くすためのボトムアップに力点を置くべきか。
  • 過去5年あまりの事業の中で、実績競争の「種切れ」が生じてきた。
  • 申請の中に「目につくものが少なくなった」とか「オリジナリティーが不足してきた」といった意見があるが、そもそも「目につく」必要があるのか、またオリジナリティーはそれほど重要か?
  • 評価の精度の問題:評価する側のポリシーがはっきりしないと評価できない。評価の形式化・形骸化。申請書を書く人の力量に左右される。
  • 数値目標はインパクトがあるが、その限界も明らか。
  • 評価が割れる最大の原因は、大学の類型化の違い。しかし類型化別に審査することは類型化の促進、固定化を助長する恐れ。
  • 教育における競争的資金は、政策的なものと底上げをはかるもの、最低2種類を用意する必要。前者では重点化、大型化、後者は、補助金額を減らしてでも採択率を上げて、きめ細かい募集と審査を行う。
  • GPのアウトカム評価が必要。在籍学生の授業評価アンケート結果ばかりでなく、落ちこぼれ率や、卒業後のフリーター率(←但し、フリーターがすべて悪いと決め付けているわけではない)などもチェックする必要がある。
  • 海外との交流を組み込んだプログラムでは、単なる視察や招聘ではなく、学生や教員の定常的な交流を確保することが必要。
  • 大学によっては、お金をとった人(採択された場合の実施責任者)ばかりが苦労するという現象あり?
 なお、地域間格差の問題については、単に「地方にもお金をよこせ」ではなく、その地域でなければできないことをアピールし、それぞれの地域が伝統産業や地場産業のノウハウを活かし、世界に通用するようなグローバル拠点を目ざすことが必要であるといった意見もあった。

 さて、他の分科会を含めて、今回のフォーラムでは、

●教育を教員個人依存から組織の表舞台へ(←パネリストのお一人の配付資料から借用した表現)

ということが共通の前提となっていたように思う。これは要するに、授業改善といっても、教員個々人の教え方スキルの向上で完結するものではないということ、

●人材養成(育成)目的を明確化した上で体系的なカリキュラムを構築し、個々の授業がその中にどのように組み込まれ、どういう役割を果たしているのか

を評価するということにつながる。その流れについては私も大枠として賛成しており、それを推進する立場にあるわけだが、反面、個々の教員の個性化や多様性を排し、教育課程の一部品として組み込むだけに終わってしまわないかという危惧も無いとは限らないようにも思う。

 特に人文社会系では、むしろ、それぞれの教員の個性的な魅力に惹かれて学問を深め、「あの時、あの先生にあのように言われたことが、今の道に入る契機となった」と回想される場合もある。また、人文社会系の学部出身者で現に活躍している著名人諸氏のご経歴を拝見すると、必ずしも、大学の学部時代に綿密で体系的な学士課程教育を受けておられたとは限らないところもあるように思える。となると、少なくとも人文社会系の大学教育においては、必ずしもタコツボ型の教育が悪いとは言えないのではないか、という気がしないわけでもない。もっとも、そういう呑気なことが言えるのは、研究重点型の一部の人文社会系学部に限られるかもしれない。志願者数が激減しているような地方大学では、今こそ危機感をもって、具体的な人材養成目的を明確化し、それにみあったカリキュラムを体系化していく必要に迫られているように思う。

 次回に続く。