じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



02月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
 昨日の日記に述べたように、2月16日の18時59分〜19時01分頃、スペースシャトル・アトランティス号と結合した国際宇宙ステーションが、岡山の真上を北西→南東方向に通過した。

 天文年鑑によれば、2月16日夕刻は
  • 15時09分 月の赤緯が最北
  • 16時53分 火星が月の南01°35′
という日にもあたっていた。国際宇宙ステーションは一年中観察可能だが、スペースシャトルと結合した状態で、かつ、月と火星が接近した直後を通過するというのは、そう滅多に見られるものではない。なお、この日は、国際宇宙ステーション通過の直後にも、西→天頂→東(途中で地球の影に入って見えなくなる)という方向に人工天体が通過した。イリジウム衛星の予報リストには見当たらないが、いったい何の衛星だったのだろう?

 写真の左のほうにあるのが国際宇宙ステーションの光跡。月の右上が火星。月の上はアルデバラン。この日の月齢は9.2であったが、明るすぎて輪郭がぼやけてしまった。同じ日の昼間に撮影した写真には、形がはっきりと分かる月が写っている。


2月16日(土)

【思ったこと】
_80216(土)[教育]大学教育改革プログラム合同フォーラム(8)特色GP学士課程(6)「学士力はどうやって測れるのか」(3)

 「学士力はどうやって測れるのか」についての考察の最終回。すでに述べたように、「学士力」をどう測るかは、それを
  1. 構成概念として扱うのか?
  2. 総合指標を策定しようとするのか?
  3. 具体的なスキルの列挙あるいはモザイクにとどめるのか
  4. もっと漠然とした「共通の話題」にとどめるのか
によって、議論のしかたはまるっきり変わってくる。今回はこのうちの3.について考えを述べることにしたい。なお、上記の4.は、1.〜3.に該当しない時の「その他」項目のようなもので、これについては特に議論する必要は無いと思っている。




 さて、3.のように「学士力」なるものを

●具体的なスキルの列挙あるいはモザイクにとどめる

のであれば、心理学や統計学の知見を活かした特段の分析は不要である。

 これは、
  • (a)十種競技(デカスロン)で優勝するためには、どのような陸上競技の練習を積めばよいか。
  • (b)健康増進のためには、どのような陸上競技の練習を組み合わせればよいか。
という議論と良く似ている。(a)の場合は、とにかく、100メートル走、走り幅跳び、砲丸投げ、走り高跳び、400メートル走、110メートルハードル、円盤投げ、棒高跳び、槍投げ、1500メートル走、というように、十種競技で指定された競技それぞれで好成績を挙げるための練習が必要であるが、その際、なぜ砲丸投げの練習が必要なのかといった議論まで立ち入る必要はない。要するに、十種競技で勝つために必要であるから砲丸投げの練習をするのである。これに対して(b)の場合は、それぞれの練習が、どういう健康指標向上に貢献するのかを実証していく必要がある。もし、特定種目についての練習が健康にとってマイナスになる恐れがあるということが判明したら即刻中止、別のメニューに取り替えなければならない。

 ●具体的なスキルの列挙あるいはモザイクにとどめる

というのは、どちらかと言えば(a)に近い議論である。要するに、具体的にどのようなスキルが必要なのかということを、各方面の有識者から列挙してもらい、大学でそれを教育するというだけの話である。例えば「英語が使える日本人」というニーズがあれば、大学で一定水準以上の英語教育を行う必要があるし、情報処理リテラシーが必要というニーズがあれば、情報処理教育を行うということになる。

 もっとも、即戦力重視のあまり、場当たり的に対応していると、10年後、20年後に必要な人材が育たなくなってしまう。このあたりの議論は、2005年2月6日の日記を参照されたい。




●具体的なスキルの列挙あるいはモザイクにとどめる

という議論においてもう1つ重要なのは、それぞれのスキルの保持性と、般化可能性である。

 保持性に関して言えば、あるスキルが大切であるからと言って、卒業後にそのスキルを活用できず、1〜2年ですっかり忘れてしまった、というのではムダである。いや、ムダも必要かもしれないが、他に学ぶべきことがたくさんあるなら、そちらのほうに重点を置くべきであろう。

 そう言えば、2月15日に公表された小学校の新しい学習指導要領案には、都道府県名すべてを覚えさせることになっているそうだが、うーむ、そういうものは、無理矢理詰め込まなくても、日々のニュースや観光旅行を通じて自然に覚えていくものではないかなあ。以前、長崎に住んでいた頃、愛知県方面にある某研究所のスタッフや院生の何人かの方に、長崎県や九州島の地図を描いてもらったことがあったが、長崎県の形を正確に描けた人は皆無。九州島においても、全員がかなりあやふやであった。住んでいなければそんなもんだろう。

 かく言う私は、学生時代に日本各地をくまなく旅行したこともあって、都道府県名や地形図はかなり正確に再現できる。しかし、最近の市町村合併のとばっちりで、岡山県内にどういう名前の市町村がどこにあるのかがさっぱり分からなくなってしまった。他府県の市町村となれば、もはや、どうしようもない。




 もう1つの般化可能性というのは、あるスキルを習得することが、別のスキルや、何らかの一般的能力の向上にどう役立つかという視点である。だいぶ昔にこういう研究発表の中で言及したことがある。例えば、Thorndikeは早くも1903年に“ある分野で成功をおさめた者は他分野でも成功するであろうという予測は、多少は的中する程度にとどまるのが関の山である”と知能の一般性を否定している。例えば、ラテン語を学んだからといって、必ずしも「学習する力」という一般能力が高められるわけではない。英語ではなくラテン語を学んだほうが国際交流に役立つというなら即刻、大学教育で必修化するべきであるが、もし「ラテン語を学ぶことは直接は役立たないが、ある種の一般的学習能力の向上を高める手段として有効である」というような、実用性以上の効果を議論するのであれば、ちゃんとしたエビデンスが必要であろう。これは例えば、第二外国語を必修化すべきか、数学教育はどこまで必要か、といった論議にも関係してくる。


 次回に続く。