じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 出張先の会場近くで見かけた「フユザクラ」。なお、このすぐ近くには、コンビニの本社と思われる建物とお店があったが、本社と同じ敷地内にあるからといって、本店という呼び方はしていない模様であった。


12月8日(土)

【思ったこと】
_71208(土)[心理]学士教育課程のコンセプト(2)戦略的基礎教育プログラム改革(1)

 昨日の続き。

 2番目は、

●学士課程のカリキュラム改革とFD〜戦略的基礎教育プログラム改革:理系を中心に〜

というタイトルの講演であった。ちなみに、この方のお話は、これまで少なくとも3回拝聴したことがあった。今回は、これまで各所で要請に応じて断片的に話されてきたことを体系化し総括されるという御意図があったようで、レジュメのほうも、パワーポイントではなく文章の形で提供されていた。私自身としては、過去に拝聴した内容を整理することができてまことに好都合であった。

 講演ではまず、我が国の学士課程教育、特に学士課程前半の理系教育について
  • 初年次教育のカリキュラムにおける不整合や欠落
  • 基礎教育の質保証がなされていない
  • アウトカム評価ができていない
  • 卒業研究の伝統が防波堤となって、基礎教育の破綻を見えにくくしていた
  • 基礎教育におけるディシプリンの責任の曖昧さ
  • 基礎教育への軽視というより軽蔑
といった問題点が指摘された。御指摘の点は大いに納得できるものである。もっともこれまでは、基礎教育の中味がかなりバラバラであっても、一定レベル以上の学生は、自学自習によりそれらを補えるだけの学力を備えていた。しかし、少子化、全入化が進む中では、やはり何らかの改革が必要であろう。





 続いて、大学院課程と学士課程のモデルについての言及があった。たいがいの国立大理系では、学生は卒業研究のために研究室に配属され、さらには修士課程に進む。この縦割り主義は、教育と研究の一体化というメリットがある反面、研究室活動の基礎のところで修士課程学生の労働力に頼るという面があり、博士課程やポストドックを中心とする米国の大学院と太刀打ちできないという欠点があった。

 こうした傾向は、旧帝大を中心とする90年代の大学院重点化、2001年の遠山プランにより大きく変化し、研究者の流動化や国際化が大きく進んだが(競争的環境の光の部分)、そのいっぽうで、教育の軽視、特に、学士課程基礎部分がおろそかになるというデメリットをもたらした。そんなこともあって、中教審17年答申では、実質学士課程後半部分の教育を担う大学院教育が重視され、大学院FDの義務化が打ち出された。もっとも、これらの議論をするにあたっては、アメリカモデルとは異なる、我が国独特の学士課程モデルをどう評価するのかという根本問題がある、というのがお話の趣旨であると理解した。




 以上のお話はもっぱら理系の学士課程、大学院課程に関わるものであったが、文系の場合はどうだろうか。もっとも、ひとくちに文系といっても、領域によりかなりの違いがあることは確かであろう。法律系やビジネス系では、相当程度の基礎教育が求められる。いっぽう、文学系の中には、独創的な着眼点が無ければ研究は成り立たないという領域もある。基礎教育はもちろん必要だが、自由なテーマ選択のもとで、個々の大学院生が主体的に研究に取り組むという場を保障することも大切ではないかと思う。ちなみに、私の担当する心理学は、理系にかなり近い特徴があり、少なくとも学士課程教育段階では、認定心理士心理学検定という形で、基礎教育の質保証が制度化しつつある。もっとも大学院レベルとなると、研究領域があまりにも細分化しすぎていて、体系的な課程教育を行うのはかなり無理があるように思う。


 次回に続く。