じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 「三瓶小豆原埋没林公園」の内部。3500〜3700年前に埋没したスギの木は、今でも自分自身の根で立ち続けているという。

 団体客の説明ツアーに便乗して、館員さんの詳しい説明を拝聴することができた。それによれば、この埋没林は三瓶山の噴火に伴う山体の崩壊と火砕流によって形成されたが、その際には2つの偶然が幸いしていた。1つは、三瓶山の火砕流が弱まって到達したため丸焦げにならずに済んだこと、もう1つは土砂によって短期間に埋没したため、腐らずに済んだということであった。

 なお、合体木根株展示棟の切り株は地下奥深いところにあり、幹の部分は発掘後に切り取られていた。なぜ現場で保存しなかったのか、その理由を伺ったところ、もともと、この埋没樹は近くの三瓶自然館の展示物として切り出したのであったが、その後の調査で付近に同じような樹木が多数埋まっていることが分かったため、発掘現場をそのまま公園として整備したということであった。展示棟周辺にはまだまだ同じような埋没樹があることが確認されており、芝生の上にマークが付けられていた。

 高松塚古墳内部の発掘後の変化からも示唆されるように、自然の力で何百年、何千年も同じ状態が守られていたようなものを、科学の力だけで保護することには限界があるように思う。保存されていたような埋没林を地上の空気に晒した場合、ひび割れ、カビ、虫害などによって、早期に劣化してしまう恐れもあり、慎重な対応が望まれる。

 とにかく、ここを訪れた時は、館員さんの説明をしっかり聴くことをオススメする。案内板やパンフレットを見ただけでは有難味が分からない。


11月26日(月)

【ちょっと思ったこと】

ホームズ彗星、33、34回目

 11月23日(金)の早朝、三瓶山麓のペンションの窓からホームズ彗星を眺めることができた(通算33回目)。三瓶山麓の空気が澄んでいることもあって透明度は抜群、オリオン座の長方形(ベテルギウスとリゲルなどで構成される四角形)の中にはなんと20個近いの星を肉眼で眺めることができた(三つ星と小三つ星を除く)。ホームズ彗星もかろうじて肉眼で確認することができた。どうやらこれが肉眼で眺めることのできた最後の機会になりそうだ。双眼鏡でもくっきりと光の広がりを確認することができた。

 23日の夜は、北九州で、双眼鏡をつかってかろうじてホームズ彗星を眺めることができた。すぐ近くに月が輝いていたが、まだまだ何とか見えていた。

【思ったこと】
_71125(月)[一般]NHKハイビジョン番組を堪能する

 連休中は妻の実家のある北九州に帰省した(途中、山陰方面の旅行を含む)。ここにはNHKハイビジョンの受信設備があり、画面がキレイなのでついつい長時間視てしまう(2004年9月18日の日記参照)。

 11月24日の昼頃には、雪舟の筆使いを模写により再現するという番組をやっていた。最も有名な水墨画の1つ、国宝の秋冬山水図(冬景図)は、緻密に計算された構図と洗練された筆使いがあるように思いこんでいたが、じっさいは、かなり大胆であり、ミスを隠すために絵の一部を塗りつぶしているような部分もあるらしい。このあたりは、ハイビジョンの精細画面でないと、視聴者には伝わりにくい情報である。




 続いて視た韓国ドラマ「太王四神記ナビ」という予告編も、ハイビジョンの大画面で視るとなかなか迫力があった。各所でCGが使われているということであったが、ハイビジョンにも高精細画面でも作り物に見えないようにするための技術というのは大変なものであると思う。逆に、かつての怪獣映画やSFものなどはハイビジョンではかえってわざとらしく見えてしまうかもしれない。

 余談だが、韓国ドラマでは、登場人物の現在の活躍ぶりばかりでなく、それら人物の幼少時の関わりや、親の代、さらには神話時代からの運命、因縁、血筋のような要因が大きく重視されているような印象を強く受ける。韓国の人たちにもともとそういう人間観があるのか、それとも、演出効果を高めるための1つの技法に過ぎないのか分からないが、日本や欧米のドラマや映画ではどうなっているのだろうか。ふだん滅多にドラマなど視ないので比較はできないけれど...。




 25日朝の「私が子どもだった頃:ピーター・フランクルさん」の番組もなかなかタメになった。ピーターさんは子どもの頃は楽天的で誰とでも親しくしていたが、近所の年上の女の子とチェスで遊んでいた時、負けてばかりで不機嫌になった女の子から「臭いユダヤ人」と言われて初めて自分自身が周囲のハンガリー人たちから差別の目で見られていたことに気づく。周りはみなオオカミであって、牙をむいているかいないかだけの違いであるというように世界は一変してしまったという。

 父母は2人とも医者であったが、いずれもユダヤ人収容所で過酷な扱いを受けていた。母は収容所で死体を焼く仕事をさせられていた。父の体には囚人番号の入れ墨が彫り込まれており、家族はみな殺されたという。このこともあって、父は、神は人を助けてくれないということから無神論者になり、ピーターの家では食事前にお祈りをしなかった。

 父は当初、おじいさんの名前をピーターにつけようとしたが、ユダヤ人っぽい名前では不利益を受けるという母の意向で、ありふれたピーターという名前になったとか。ちなみにおじいさんの名前はピーター・フランクルさんご自身の息子さんにつけられている。

 余談だが、番組の中でピーターさんは、数学の法則というのはどの時代、宇宙のどの場所で誰が証明しても同じように成り立つというようなことを言っておられた。私自身は高校時代までしか数学を学んでいないので、物理数学とか基礎数学とかの考え方についてはよく理解できていないのだが、ピタゴラスの定理が、地球の上でも火星の上でも、銀河系以外のどこかの惑星の上でも同じように証明できることは確かだろう。もっとも、定理の前提となる公理として何を採用するかは、それぞれの宇宙人の生活様式に依存して変わってくるはずであり、地球上と同じようにピタゴラスの定理が有用であるかどうかは何とも言えない。例えば、ドロドロの液体の中でぷかぷか漂いながら生活している動物にとっては、ピタゴラスの定理はあまり役に立たないだろう。もっと重要なことは、何をもって同一とするか、にも違いがあるはずだ。地球上と比べて万物の変化がきわめて激しい世界であれば、ある2つのモノを同一と見なすことは殆ど意味をなさない。もちろん、そういう世界でも、原子や分子は地球上と同じであり、基本的には同じ物理法則が成り立つはずだから、化学物質の同一性という論議はできるとは思うが、おそらく、地球上とはおよそ異なる「論理学」ができあがっているに違いないと思う。そういう世界で高等生物が進化するかどうかは分からないが、地球上で作った物差しで、別の世界の生物について高等か下等かという議論をすること自体、殆ど意味をなさないかもしれない。

 なお、この種の番組では高精細画面は不要であり、わざわざハイビジョンで放送する必然性は無い。総合TVや教育TVを通じて多くの視聴者に提供することが望ましい。




 ということで、ハイビジョンの番組はなかなか素晴らしいと思うが、一番の不都合は録画ができないことにある。私の場合、ためになりそうな番組はいったん録画しておいて、何度かそれを再生した上でこの日記に感想を書くとか、後日、何かの話題と関連づけるために利用したりする。もちろんハイビジョンも、設備さえ整えれば録画できるのだろうが、そこまで金をかけるつもりはないなあ。テレビ番組というのは1回限りの視聴ではなく、繰り返し再生でき、回想可能性が保証されることによって初めて価値が出てくると思うのだが、著作権の問題などあってなかなか難しいのだろう。