じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



11月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る



 モンゴル・フブスグル湖岸の山中で見つけたキノコたち(2007年8月15日撮影)。日本でも見かける種類もあれば、初めて見たキノコもあり。このあたりは「モンゴル大草原」というよりも「シベリアのタイガ」に近い気候になっているようだ。


11月2日(金)

【ちょっと思ったこと】

ホームズ彗星6、7回目

 11月2日(金)の夕食後と3日(土)の早朝にバッチリ眺めることができた。ペルセウス座のδ星(3.0等)よりも暗いので4等星台ではないかと思われるが、明るい部分が拡散し、肉眼でも雲のかけらのように見える。こんな形をしている天体を肉眼で見るのは生まれて初めてだ。アストロアーツのサイトに関連記事あり。

【思ったこと】
_71102(火)[心理]日本心理学会第71回大会(41) 日本人は集団主義的か?(5)「自分は」という表現

 高野氏の話題提供では、言語学からの反証のもう1つの例として、「自分は○○だ」という表現が挙げられていた。「ぼくは」や「わたしは」と、「自分は」は同じように見えるが、

●「秋男は、ぼくは泳げないと言っている」と春男くんが言った。

という表現では、泳げない人が、秋男くん自身なのか、それとも話者である春男くんなのか、区別をつけることができない。しかし、

●「秋男は、自分は泳げないと信じている」と春男くんが言った。

とすると、泳げないと信じているのは秋男自身であることが明確になる。日本語の「ぼく」は公的自己(伝達の主体)であって集団主義の根拠になりうるが、「自分」は私的自己(信じている、思考の主体)の一人称代名詞である。「自分」は他者から独立した個人である私的自己を表すが、そういう言い回しが存在することは、「日本人の自己は他者との関係の中のみで自己が成立し、内集団と一体化する」という「日本人=集団主義」観では説明できない、という御趣旨であったようだ【事例は、長谷川のほうで要約改変】。

 全くの素人の私にはよく分からないところが多いのだが、うーむどうかなあ、そもそも、「自分は」という表現は、昔の日本語には無かったはずだし、私的自己というほど定着した言い回しにはなっていないように思う。単に客観的に、「秋男は」で言及された話題の人物自身と主語が一致していることを示しているだけではないかなあという気もする。

 例えば、

●秋男は、自分は天才だと信じている

という表現と、

●秋男は、他人は皆バカだと信じている

という表現は大差ないし、

●秋男は、自分の子をかわいがるのは当然だと思っている

という表現のように、文脈によっては「自分の」が「秋男の」という意味のほか、「人は誰でも自分の...」という意味にもとれることがある。なんだかあんまり説得力がない反例のように思えるのだが、私の理解が足りないためだろうか。

 ちなみに、ネットで「自分はという表現」というキーワードで検索すると、就職活動支援サイトに

●自分のことは「わたくし」という。「自分は」という表現も使わない。

とアドバイスされていることが分かった。これって、「自分は」が私的自己表現であるためだろうか、いや、面接では「ぼくは」や「オレは」も禁句だろうから、単に、謙譲表現として「わたくし」を使えという意味だと思うのだが、どうだろうか。


 次回に続く。