じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 中秋の名月。中秋の名月というのは旧暦の8月15日の月のことをいうのであって、満月より少し前となることが多い。今年の場合は、21時の時点での月齢は14.0。満月は9月27日の4時45分となっており、肉眼でも、まだ幾分、完全な円形には満ち足りていないように見える。

 なおデジカメで月と夜景の写真を一緒に撮ると、月の方が明るすぎて輪郭がぼやけてしまう。ここに掲載した写真は、月と夜景を別々に撮って合成したものであり、月のほうは約3倍にズームされている。


9月25日(火)

【思ったこと】
_70925(火)[心理]日本心理学会第71回大会(8)構造構成主義の展開(2)

●21世紀の思想と人間科学のあり方〜構造構成主義の展開〜

というシンポジウムの感想の2回目。

 まず初めにお断りしておくが、構造構成主義についての私の理解は、昨日の日記にも述べた通り、まことに微々たるものである。従って、少なくとも現時点では、私は、批判者や論評者の立場に立つ資格は無い。ここに書くことはすべて、私自身が考えてきたこととどのあたりに相違があるのか、どのあたりに着眼すれば今後の理解が進むのか、についてのメモ書き程度のものであると了解いただきたい。



 シンポの最初の話題提供の中で、西條氏は、「様々な存在・意味・価値は、身体・欲望・目的・関心に相関的(応じて)規定される」という関心相関性について説明、自他の関心を対象化することの意義を強調された。また、そのようにすることは、種々の論争や信念対立を発展的に解消する上で大いに役立つというような話もされた。

 この部分に関しては、3月11日開催のシンポに参加していたこともあって、そのロジックは概ね理解できたつもりである。もっとも、もし、

信念の対立は、どちらかが正しく、どちらかが間違っているために生じるのではない。2者間の欲望や関心の違いが異なっていたために、異なる信念が形成され、排他的な競合場面で対立しているに過ぎない。その相関性に気づけば、対立は解消される。

という程度の内容であるならば、わざわざ、○×主義というように大上段に構えなくても、「お互いの立場について理解を深めれば対立は解消する」と述べるだけで済むはずだ。要するに、構造構成主義の考え方を持ち込むことによってどれだけプラスαのメリットがあるのかということがポイントになると思うのだが、現段階ではまだ「構造構成主義であればこそ、これだけの効果が期待できる」という確信を持てない、というのが私の率直な感想である。同じフロアに居られた方々はどういう感想を持たれたのだろうか。




 それと、欲望や関心の違いを論じるのであれば当然、個々の人間において、
  • なぜ違いが生まれるのか
  • どうやったら欲望や関心を高めたり低めたりすることができるのか
という問題を、適用可能な形で解明していく必要がある。このことについては、3月20日の日記にも考えを述べた通りであり、私自身は、行動分析学の視点が最も有効であろうと考えており、今のところ、それを否定するような致命的な反例には出会っていない。

 ここで仮想の事例を3つほど挙げておくと、

 まず、飲み水に対する関心・欲望は、行動分析学でいう確立操作と、弁別学習によって十分に説明可能である。炎天下に街中を歩いている人であっても、砂漠地帯を放浪している人であっても、喉が渇けば水分を求めようとする。その基本は確立操作である。しかし、ただ単に「水」と叫んでも目の前に突然、水の入ったコップが現れるわけではない。街中を歩いている人であれば自販機を探すであろうし、砂漠地帯の放浪者であればオアシスの目印になりそうな樹木を探そうとする。この場合、探そうとするというのは、それらに関心を持つということと同義である。それらはすべて、
  • 自販機にコインを入れればペットボトルが手に入り、その中には水が入っている
  • 木がたくさん生えているところにはオアシスがあり、そこに行けば、水を汲むことができる
といった過去体験(過去の弁別学習、ルール支配行動、...)とその般化によって生起頻度が高まる行動と言えよう。

 2番目に、ある小学生がどうやって将棋に関心を持つかという事例を挙げてみよう。どのように偉大な将棋名人であれ、生まれながらにして将棋に関心を持っているなどということはあり得ない。かならず、何かのきっかけ、例えば、お祖父さんに将棋を教わったとか、友だちと遊んだというようなきっかけがある。そして、その後、こども将棋の連成塾のようなところで戦果を挙げたり、テレビ将棋の次の一手をうまく当てられたり、昇級したりすることで、ますます関心を深めるようになる。これらはすべて、行動分析学でいうシェイピングや強化によって説明可能である。

 3番目は、習得性好子(条件性強化子)の例。ネット通信販売サイトなどではしばしば、種々のサービスを利用すると「ポイント」が付与される。利用開始当初は、わずかのポイントを貰っても使い道が無く、保有ポイントなどにも「関心」も持てないが、ポイントが貯まって景品等を交換する機会が増えると、次第にポイントを増やそうと頑張るようになる。この場合、「ポイントが欲しい」という欲求はすべて、条件づけの原理により説明可能である。

 以上述べた3つの事例で「説明可能」と言っているのは、あくまで、予測や制御が可能というレベルであり、それぞれの経験の中でどういう感情が付随するのか、その質はどうか、主観的にしか表現しえないような価値があるのかないのか、ということまでは言及していない。しかし、最低限こういう原理を知っておくということは、関心や欲求を「所与」のものとして前提とするアプローチに比べると遙かに生産的であり、多くの問題の解決に役立つはずである。そういう地道な研究成果を排除して(前提として固定して)しまったのでは、何かを改善しようというような議論には繋がらないように思う。




 なお、シンポの終了時に質疑の時間があったので、私から、

●構造構成主義では、関心や欲求を議論の出発点に置いているようですが、それらの拠り所となるような心理学の理論はあるのでしょうか?

というような質問をさせていただいた。それに対して西條氏は、

●構造構成主義はメタ理論なので、特定の心理学理論には依拠しない

というように回答された(←長谷川の記憶に基づくため不確か)。いや、それはそうなのだろうが、関心や欲求を何らかの前提に置くのであれば、個々人においてそれがどういうプロセスで形成され、どうすれば変容するのか、ということをしっかり抑えておく必要があるのではないかなあ、という疑問が残った。

 このほか、竹田青嗣氏から、

●人間の欲求は所与のものであり、ネズミの欲求について実験的に検討しても何も分からない

というようなお返事があった(←長谷川の記憶のため、かなり不確か)。このお答えについては、別の機会にもう少しご真意を尋ねてみたいという気もするが、動物実験研究についてかなり誤解があるようにも思われた。

 私の理解するところでは、ネズミを使って欲求や動機づけ(行動分析学で言えば、確立操作や強化)の研究をするのは、ネズミの欲求の中味(質的内容)を調べるためではない。ネズミにはたぶん、地面を掘って穴掘りをしたいという欲求があるだろうが、そのことが人間のトンネル工事の欲求に進化したなどというこじつけをするためにネズミの研究をしているのではないのだ。ネズミの実験で分かるのは、レスポンデント条件づけやオペラント条件づけのプロセスにより、行動がどう強化されていくのか、という原理を明らかにすることである。材料や中味は異なっても、同じ手順で同じように欲求なる現象(つまり、確立操作、習得性好子、強化などなど)が予測・制御できると期待されるなら、ネズミの研究も決して無駄ではない、と私は考えている。

 次回に続く。