じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 日本心理学会第71回大会の会場となった、東洋大学・白山キャンパス。今回は、宿泊先から徒歩5分という近さにあり、何かと便利。3日間、朝から夕方までフル参加の予定だが、大規模学会であり、同じ時間帯に20以上のイベントが並行開催されるため、全企画の1/20程度しか参加することができない。例えてみれば(←適切な例えかどうかは異論がありそうだが)、東京ディズニーランドに入園したものの、時間の関係ですべてのアトラクションを体験することができず、アドベンチャーランドとウエスタンランドだけ楽しんで帰るような感じ。要するに、「大会に参加した」と言っても、実際は「大会の1/20のイベントを体験した」という程度が精一杯ということだ。



9月18日(火)

【思ったこと】
_70918(火)[心理]日本心理学会第71回大会(1)今年もまた血液型論議

 日本心理学会第71回大会が、文京区白山の東洋大学で開催された。

 日本心理学会は心理学関係の学会としてはトップクラスの規模であり、大会1日目午前には、招待講演、シンポ、小講演4件、ワークショップ17件、ポスター発表がほぼ当時に開始された。しかし、体が1つしか無い以上、その中から1つを選ばなければならない。いろいろ迷ったが、昔からの経緯もあり、大村政男先生の、

●血液型性格研究はナンセンスか〜東洋大学:杉山憲司教授に応える〜

というテーマの小講演に参加させていただくことにした。テーマ自体はきわめて挑戦的な印象を与えていたが、朝一番であったことと、同時間帯に並行開催される招待講演などと競合したせいか、開始時の聴衆は20名前後、終了時でも35名前後、ということで、比較的こじんまりとしたイベントであった。




 さて、今回の「挑戦的な」タイトルが出てきた経緯であるが、タイトルに固有名詞が出てきたのは、本大会が東洋大学で開催されたということにちなんだものかと思う。かつて某学会で、東洋大学の先生から「血液型」を心理学の研究として扱うのはナンセンスだという意見が出されたことがあったので、今大会を機会に、大村先生ご自身の四半世紀に及ぶご研究を振り返り、「血液型」研究にもそれなりの意義がありますよということをアピールしたい、というのがご講演の趣旨であると理解した。

 なお、杉山憲司先生の紹介サイトには、代表的御著書として 『パーソナリティ形成の心理学』(青柳肇・杉山憲司(編著) 福村出版 1996)が挙げられてており、
パーソナリティは血液型で判断されるような単純・不変な理解は間違っている。パーソナリティ形成の仕組みや要因についてまとめた、やや専門的な本。
という内容紹介があった。しかし、今回の大村先生の講演は、杉山先生の「パーソナリティは血液型で判断されるような単純・不変な理解は間違っている」という主張に直接反論したものではなく、全体としては、2005年大会のご講演の内容をコンパクトにまとめた、という印象が強かった。




 今回の大村先生の論点を私なりにまとめると、
  • 血液型と気質の関連を世界で最初に言い出したのは原来復(はら きまた)という医者。大正5年7月25日付けの『医事新聞』に「血液ノ類属的構造ニ就テ」という論文が掲載された。但し内容は、原の個人的体験や直観に依るところが多い。
  • 大正の末期から昭和の初期にかけて陸軍の軍医たちが血液型と弊誌の個性の関連に熱を入れるが、なぜか、原の論文は引用されていない。
  • その後、古川竹二(1891-1940)が、二分法(OとBはactive、AとABはpassive)、さらには四分法で各血液型の特徴について論じる。ちなみに、大村先生の追試では、古川の二分法は支持されなかった。古川の質問紙調査では、古川の意図をもともと知っていた被験者が回答したため、バイアスが生じたと考えられる。
  • 血液型性格研究は通俗的な読物のために汚染された。その通俗化に貢献したのが能見正比古。能見正比古は大宅壮一から「これをやると儲かるぞ」と言われていたという伝聞情報あり。
  • 能見正比古は古川学説を滅茶苦茶に変身させてしまった。しかし、この人がいなければ血液型問題は現在のように隆盛にはならなかった。
  • そのいっぽう、科学は通俗を軽蔑する。このことによって、心理学者の多くは血液型性格判断を頭ごなしに軽蔑するようになる。しかし多くの「血液型」批判者は、能見正比古やそれに類した好事家によって喧伝されたものしか知らない。
  • 心理学者の多くは「血液型」には批判的だが、千葉胤成、田中秀雄のような「肯定派」もあった。田中秀雄は血液型と気質の検証は心理テストではダメであり、「本質直観」が必要と主唱。心理学意外の分野では、藤田紘一郎や竹内久美子が、血液型や体質型を重視。
といったことになるかと思う(文責は全て長谷川)。余談だが、今回の小講演には、古畑種基氏のご子息の和孝氏も出席されており、古畑種基氏の血液型を訂正されるというハプニングがあった。

 以上伺った限りの内容に関しては、私としては、2005年9月11日の日記に記したこと以上には、付け加えて申し上げるべきコメントはあまりない。

 通俗化による汚染部分を取り除きつつ、純粋な学術研究として、血液型が気質のどの部分と関連しているのかということを検討すること自体は私も、決してナンセンスだとは思わない。但し、研究の重要性は単なる知的興味だけにゆだねられるものではあるまい。特定の血液型者が新型インフルエンザに感染しやすいというような危険性があるならば、ワクチンの効率的接種のために真っ先に取り組むべき研究テーマとなるだろうが、そのような生命に関わることではなく、「ある行動が生じる確率が血液型の違いによって0.1%違う」という程度のことを明らかにしたとして、それが人類の福祉に役立つとは思えない。むしろ、「0.1%の差」が誇大視され一人歩きして差別偏見を助長してしまうリスクのほうが大きい。

 というようなことから、私は、卒論生が自らの疑問を解決する目的で研究する場合、あるいは好事家が私財を投じて研究をする限りであれば、別段ナンセンスだとは思わない。但し、同じ「血液型」テーマであっても、科研費のような血税を投入して、巨大ブロジェクトを立ち上げる必要があるかと問われれば、そういうものはナンセンスであり税金の無駄遣いだと言わざるを得ない。

 心理学者が「血液型」に関わるとしたら、それは、
  • 通俗化された「血液型性格判断」がテレビ、新聞、週刊誌等で喧伝され、そのことに影響を受けた差別偏見が社会問題となってきた場合に、適切な批判を加える。
  • パーソナリティとは何かを考えたり、批判的思考を鍛えるため(こちらに関連論文あり)の教材として「血液型性格判断」を利用する。
  • 「血液型」喧伝者のロジックがなぜ流布しやすいのか、人はなぜ、あのように、ラベルをつけて他人に接しようとするのか、などについての社会心理学的研究
というあたりに主眼を置くべきであろうというのが、私の一貫した考え方である。

 次回に続く。