じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 農場ごしに眺める日の出(9月11日5時56分撮影)。太陽の左側は岡大・本部棟。右側は農学部の建物。なお、5時40分頃、東の空に明るい星を目撃。天文年鑑で調べたらマイナス4.4等級の金星であることが分かった。そうか、ついこの間まで宵の明星だと思っていたら、もう地球を追い越してしまったのか。なお9月24日には最大光度(マイナス4.6等級)となり、この前後は昼間でも見えるはず。



9月10日(月)

【思ったこと】
_70910(月)[一般]伝聞や憶測に基づく論評の価値(1)

 6月27日の日記に記した通り、日記才人閉鎖後は、もっぱら、はせぴぃアンテナを通じてWeb日記やブログを拝読している。登録数の上限が200件となっているため、時々、更新の少ないサイトを外したりして入れ替えをしているが、私自身で選ばせてもらったということもあって、全般にアクティブに更新されており、論客揃いとなっている。9月11日07時半までの24時間に更新されたサイトだけでも70件にのぼっており、すべてに目を通すのは難しいほどである。

 そんななか、
  • 個人のWeb日記やブログの執筆者たちは、世の中で起こっている事件について、どこまで事実を確認できるのだろうか。
  • 間違った情報に基づく論評にはどこまで価値があるのか
というようなことについて、ちょっと考えてみた。

 例えば9月8日の日記の後半に言及した「拳銃ライター事件」だが、この事件は、
相鉄本線二俣川駅で停車中の普通電車内で拳銃型ライターを持って悪ふざけをしていた男子高校2年生(16)を巡査長が平手打ちして逮捕された
という形で報道され、当初は、巡査長を支持する声が多数上がったが、その後、実は、「注意したのは車掌だけであった」とか「車内はガラガラで、“拳銃”を向けられた人はいなかった」、「高校生は駅員の注意で素直にしまったが、巡査長はいきなり殴った」などの(一部未確認)情報が飛び交い、巡査長への共感は下火になってしまった感がある。

 この場合、「殴るという行為はよくないが、悪ふざけをしていた高校生に注意をしたのは勇気ある行為だ」と主張することは「不確かな事実に基づく、お門違いの議論」ということになるのだろうか。

 確かに、この二俣川駅の事件に限っては、事実の認識に誤りがあり、当該の巡査長への支持は不適切と言えるかもしれない。しかし、一般論として、

もし、車内で拳銃型ライターを持って悪ふざけをしている高校生が居て、口頭での注意を聞き入れなかったとしたら、

という前提のもとで、

●そこに居合わせた乗客の一人が、高校生のライターを力ずくで取り上げた上でお説教をしたとしても、それは暴力行為とは言えず、むしろ、勇気ある行為として称えられるべきだ

という主張をすることは、決して間違っていないと私は思う。

 このことに限らず、ある事件に関連して何かの意見を述べる場合には
  1. 事件そのものの真相解明をめざし、事件関係者の行為の是非について意見を述べる
  2. 事件で伝えられた情報について、それが正確であったと仮定し、その前提のもとで一般的な意見を述べる
という2つのタイプがあるように思う。1.の場合は、伝えられた情報が間違っていた時には直ちに訂正し、もし関係者の名誉を傷つけた場合には公式に謝罪する必要があるが、2.の場合は、事件はあくまで「意見を述べるきっかけ」に過ぎず、後に、誤報であることが分かったからといって、意見そのものまで訂正をするには及ばない。但し、2.のタイプで意見を述べる場合は、きっかけとなった事件に関しては、「伝えられた情報が事実であったとすると...」、「事件についてはよく分からないが、もしそのようなことが事実であった場合は、一般論として、...」というようにちゃんと断り書きを入れ、関係者の名誉を傷つけないような周到な配慮が必要であるように思う。




 上記の2つのタイプのうち1.は、歴史的な事実に言及する場合や、犯罪容疑者が有罪か無罪か、などを論じる場合にあてはまると思う。もっとも、私自身を含めて、大多数のWeb日記作者やブロガーと呼ばれる人たちは、現場で事実関係を確認できるような立場には無いのがふつうである。また、仮に現場に居合わせて一部始終を目撃していたとしても、当事者の過去やその時点での環境や文脈がどうであったのかということまで確認することはできない。「事実」として報告される段階ですでに、重み付けや取捨選択が行われてしまっている可能性がある。

 であるからして、大多数のWeb日記作者やブロガーと呼ばれる人たちができることというのは、通常は2.のタイプの議論、つまり、ある事件を伝え聞いた時、「その情報が正確であったと仮定して」という断り書きをつけた上で一般論的な見解を述べる、というのが妥当な表明のしかたではないかと私は思っている。これは、単なる一言居士に終わってしまう恐れもあるけれど、長期間の執筆を通じて、各種の一言居士的な発言にどれだけの整合性があるか、全体として何を訴えようとしているのかを示す「発言事例」として意味をなしてくるように思う。

 次回に続く。