じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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[今日の写真]
鬱金桜の花の色が鬱金色からピンク色に変わってきた。写真上は4月14日撮影、この時は鬱金色。写真下は4月23日撮影。完全にピンクになるわけではなく、その前に散ってしまう。なお後ろにある一面ピンクの花は八重桜、その後ろの建物は文学部。



4月25日(水)

【思ったこと】
_70425(水)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(13)心理学者,大学教育への挑戦7−グループ活動を含む初年次教育の実践−(2)認知心理学の入門書に書かれている「行動主義」批判を鵜呑みにした偏見?


 フォーラム2日目の夕刻に開催されたラウンドテーブル企画:

●心理学者,大学教育への挑戦7 −グループ活動を含む初年次教育の実践−

の参加感想の2回目。

 さて、通算7回目となるこの連番企画を推進しているのは「大学教育研究に関わる心理学者の集い(あすなろの会)」というグループであるという。当該サイトには、
 現在の大学教育研究の世界では、「こんな授業をやりま した」「こんな改革に携わっています」「学生は喜びました」式の発表が非常に多く、もどかしい思いをしています。 単なる実践報告をおこなうことで満足するのではなく、より質の高い大学教育研究へと高めていく必要を感じています。
というような、会の趣旨が記されており、当日配布資料でもこのことに言及されていたが、これは大変結構なことだと思う。

 しかし、少なくとも今回の御発表の中の「行動主義」批判の部分は、どうにもこうにも納得できるものではなかった。昨日の日記にも記したように、それらの批判的言及は、認知心理学の入門書に書かれている「行動主義」批判を鵜呑みにしているだけで、スキナーの著作や最近の行動分析学会の活動は全くご存じないのでは、と疑ってしまいたくなるようなふしがあった。せっかく大学教育研究の質的向上に真摯に取り組んでおられるのに、この部分に関して、どう見ても、行動主義に対するステレオタイプな偏見としか言えないような言及があったのはきわめて残念。しかし、見方を変えれば、そういう現象があるということは、行動分析学の知見や成果がごく一部の心理学者たちにしか伝えられていないことの表れであるとも言えよう。今後の対話や相互交流の必要性を強く感じた。




 私が「行動主義に対する偏見」であると感じたのは以下の部分である。

 まず、話題提供者のI氏は、配付資料の中で、『認知心理学からみた授業過程の理解』(多鹿、1999、北大路書房)の表を転載されていた(資料7)。その部分を文章化すると以下のようになる。なお、当該の表では、授業過程を理解するための3つのアプローチとして、行動主義心理学アプローチ、認知心理学アプローチ(情報処理と状況認知)が3列に並列されていたが、後者2列はここでは「/」で並記することにする。
  1. 知識獲得:行動主義では「経験による刺激と反応の連合」、 認知心理学では、「心的構造や過程の形成/コミュニティへの実践的な参加
  2. カリキュラム:行動主義では「連合の強化を目標」、認知心理学では「概念的理解や一般的能力の開発を目標/実践的な参加を目標
  3. 動機づけ:行動主義では「外発的動機づけ」、認知心理学でha 、「内発的動機づけ/没頭した参加
  4. 教師の役割:行動主義では「調教師」、認知心理学では「ガイド
  5. 児童・生徒の役割:行動主義では「情報の吸収者」、認知心理学では「知識の構成者
  6. 仲間の役割:行動主義では「考慮されない」、認知心理学的アプローチのうち情報処理では「それほど重要ではない」が状況認知では「重要である
 以上の対比について、いちいち反論をしていたら、それこそ原稿用紙50枚くらいの論文が出来上がってしまいそう。そう言えば、このことに関連して、14〜15年前に、
  • スキナー以後の行動分析学:(2)心理学の入門段階で生じる行動分析学への誤解.岡山大学文学部紀要(第18巻)、1992年。
  • スキナー以後の行動分析学:(3)S-R条件づけ理論との混同.岡山大学文学部紀要(第20巻)、1993年。
という小論を書いたことがあった。これを機会に、ネット公開論文に加えておこうかと思う。連休中にその作業を開始したい。

 とにもかくにも、行動分析学では「刺激と反応の連合」などという言葉は一切使わないし、内発的動機づけなるものは、「行動の罠」や「行動内在的強化」としてちゃんと位置づけている。さらに、オペラント学習は、学習者が環境に能動的に働きかけることによって習得されるものであって、決して「情報の吸収者」にとどまるものではない。教師は調教師ではなく、生徒が主体的・能動的にオペラント学習を進めていくためのガイド役でなければならない。「仲間の役割は考慮されない」っていうのは、どこの行動主義者がそう言ったのだろう? スキナー箱にネズミが1匹だけ入れられていることからの連想だろうか。




 このほか、後の討論の中で、ライティング方略の分類(井下、2005)についての言及があり、そこでは
  • 知識叙述型:初心者、表層的・単線的、教え込み、転移観は行動主義、個人学習、コースデザイン
  • 知識構成型:熟達者、内容的・再帰的、支援、転移観は社会構成主義、協同学習、カリキュラムデザイン
というように対比されていたが(一部省略)、知識叙述型と知識構成型に分類することは大いに結構であるとして、なぜそこに、行動主義や社会構成主義が登場してくるのか、私には理解できなかった。




 最後に質疑の機会があったので、さっそく「今回、対比されていた「行動主義」というのは具体的に、いつの時代のどの行動主義のことをさしておられるのでしょうか?」と質問させていただいたが、回答は、「認知心理学で一般的に批判されている行動主義」とのことであった。うーむ、「一般的に批判されている」というのは聞こえはよいが、要するに、ワトソンが唱えた行動主義やハルやトルーマンなどの新行動主義行動主義やスキナーが創始した徹底的行動主義・行動分析学をすべてひっくるめて、認知心理学の優越性を主張するためのツールとして利用しているだけではないかなあ、という気がしてならない。

 とにかく重要なことは、まず現状を分析し、心理学のどのような知見を活かして改善の試みを行ったのかということだろう。教育現場がどこぞの「行動主義」一辺倒であってそれを改善するために認知心理学の知見が役立ったというならば、どこぞの「行動主義」と認知心理学を対比的に紹介して優越性を主張することにもそれなりに意義があると思うが、いまの現場で問題となっているのはいるのは「行動主義蔓延」ではなくて、

●「こんな授業をやりました」「こんな改革に携わっています」「学生は喜びました」式の「 単なる実践報告」

では無かったんじゃないかなあ。それを克服・改善するためには、認知心理学者も行動分析学者も手を取り合って前に進んでいかなければならない。ま、いろいろ言いたいことはあるが、とにかく、行動分析学に対する偏見だけは捨てて欲しいと思う。

 次回に続く。