じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]
岡大・東西通りのハナミズキ。ハナミズキの花は樹の高いところに咲いていて逆光になるほか、桜などに比べると彩度が低く、撮影が難しい。今回の写真は、夕刻、西日が横から当たっている時に撮影。



4月23日(月)

【思ったこと】
_70423(月)[教育]第13回大学教育研究フォーラム(11)批判的思考力育成と高次リテラシー能力(3)Evidence-Basedをめぐる議論


 昨日の日記で、
 しかし、とりわけ、心理学の専門教育のレベルにおいては、少し前の連載した、
といった、Evidence-Basedの枠外の議論もある。つまり、
  • 自然科学の方法論の枠組みにおける批判的思考
  • 構造構成主義的な視点
  • 社会構成主義的な視点
では、真偽基準(あるいは、真偽そのものについての捉え方)がそれぞれ異なっており、Evidence-Basedのレベルで「これなら正しい」とされる結論が、別のレベルでは、「それは、その枠組みの中の前提を受け入れる限りでは正しいが、枠組みの外から見ればゼッタイとは言えない」とされてしまうこともある。
と書いたところ、共分散構造分析の第一人者として知られる豊田氏から、以下のようなコメントをいただいたので、以下に一部を転載させていただく(改行部分等、長谷川のほうで改変)。
...,EBAで「これなら正しい」という場合は,それほど葛藤はない様に思います.EBAの対照実験で「花粉症の薬をのませる」とか「認知行動療法の新しいアプローチで欝に効果」が確認されれば,他のアプローチで「ゼッタイとは言えない」といわれても無視できる範囲であると思います.(社会構成主義的であるが故に)少なくともEBAの枠組みではこれでよいのだ,といえば反論はされません.そもそも「ゼッタイとは言えない」という命題はほとんど常になりたつのであまり情報量がありません.

 問題なのはEBAで「これは正しくない(正しいという証拠が得られていない場合に,科学のデフォルトとしてこう言います)」という場合に,その枠組みの(EBAの枠組の)前提を,他の立場(長谷川先生の挙げられた例では社会構成主義的な視点など)は受け入れないでいいかという問題です.これは深刻です.うまい例が挙げられるか心配ですが,たとえば
「Aという欝を改善するアプローチをしたところ」EBA的には効果が確認されなかった.しかし個々のクライエントのナラティブとしては,治療を受けているうちに「飼っている犬との関係が良くなった」「朝ごはんが美味しくなった」「治療者がハンサムで生きていて楽しい」「ネットの世界の素晴らしさを知った」「医院で友達ができた」などポジティブな個人生活史的な物語が語られる.EBA的にはアウトでも別の枠組みでならOKといって良いのか?
という問題です.この場合は私は断じてダメだと思います.立場の問題ではありません.これはEBA的には(釈迦に説法ですが)典型的な「後付バイアス」「選択バイアス」です.もしこれが許されるなら,インチキ投資顧問のアドバイスも霊感商法も社会構成主義的な視点からは,ゼッタイ正しくないことはないということになるのでしょうか.後から事例を選べばナンとでもいえます.私は正しくないと思います.
 御指摘いただいた点は、かなりスケールの大きな議論に発展する余地があると思うが、私は、現在のところは、杉万氏の『社会構成主義と心理学』(下山編『心理学論の新しいかたち』、誠信書房、2005年)で論じられている「一次モードと二次モードの連続的交替運動」という考え方に基本的に同意している。

 じっさい、個人あるいは社会における種々の進路選択や決定は、断片的な因果推論の寄せ集めではなく、たぶん、連続交替運動として展開されていくように思う。もちろん、ある枠組みの中では正しいか間違っているかという議論はできる。その場合、後付けバイアス(事後的なご都合解釈)は認められない。この点では、インチキ投資顧問や霊感商法は断じて排除されなければならない。

 「EBA的には効果が確認されなかったが、治療を受けているうちに「飼っている犬との関係が良くなった、...」という話は、第13回大学教育研究フォーラムではなくて心理療法におけるエビデンスとナラティヴの連載に関わる議論になってしまうが、これは、差し迫った判断を求められているのか(あるいは、公的補助の審査対象になっているのか)、それとも、より長期的視点や全人的な視点でとらえた時に、どれだけの効用が期待できるかという問題として捉えることができるかと思う。

 こちらの小論でも論じたように、カルト宗教や悪徳商法でなく、特段の有害性がなく、まっとうな医療を否定するもので無い限りは、セラピーの内容は、かなりの程度まで「EBAフリー」であってよいのでは、というのが私の考えである。例えば、「園芸療法はどうあるべきか」と考える際には、「治療・改善効果を高めるためには何が必要か」という議論は必ずしも必要ない。
  1. セラピーは、治療や改善などの有効性の有無だけによって評価されるものではない。生活の質の向上をもたらす活動、つまり「それに関わること自体が楽しみとなるような活動」もセラピーに含めることができる。
  2. 但し、第三者の助けを借りずにそのような活動を行う限りにおいては、それらは「療法(セラピー)」ではなく、「福祉」として位置づけられる。
  3. 何らかの理由でそのような活動に自立的に関与できない人々に対して、その活動内容および福祉や医療の専門的体系的知識を身につけた者(「療法士」)がサポートを行うことは、セラピーに含まれる。
  4. 上記3.の実践においては、対象者の現状と可能性を把握し、目的にあったプログラムを立案、またそのプログラムが有効に働いているかどうかを評価できる能力が要求される。
 つまり、治療・改善効果に関わるEBAよりも、利用者に対するサポートの技法上の有効性に関するEBAのほうが大切というわけだ。




 さて、連載の元の議論に戻るが、とにかく、導入教育や教養教育の範囲で批判的思考力や高次リテラシー能力養成を行うことは大いに意義があると思う。しかし、専門科目として心理学関連の緒科目を受講する学生・院生ともなれば、認知心理学の枠組みの中でのEvidence-Basedな考え方を学びつつ、別の授業では、社会構成主義的な発想にもふれることになる。といって迷ってばかりいては先に進めない。学士課程教育において、カリキュラムにこれらをどう取り込むのか、大きな課題になっているようにも思う。


 かなり脱線しつつ、次回に続く。