じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



4月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真]
 4月1日の日記に「朝霧につつまれるソメイヨシノと時計台」という静寂感あふれる写真を掲載したところであるが、4月2日は新入生オリエンテーションが実施され、一転して賑やかな大学構内になった。この日の午後には、新入生たちは、さっそく英語習熟度クラス構成のためにTOEICを受験。

まだ駐輪ルールについてガイダンスを受けていないためだろうか、平常授業時では考えられないような場所にたくさんの自転車が駐められていた(写真手前の白線エリアは本来、バイク専用駐輪場。それ以外の場所は駐輪禁止であり、本来は自転車置き場に移動しなければならない。)。


4月2日(月)

【ちょっと思ったこと】

東国原知事のタミフル発言

 宮崎県の東国原知事は2日、インフルエンザでの入院から復帰して臨んだ新規採用職員の入庁式で「タミフル」を服用したことを話し、「異常言動に走るかもしれない」などと発言した。その後の記者会見で、「タミフルと異常行動についての因果関係は科学的に実証されていない。ブラックユーモアを交えて社会風刺したつもりだった」と切り出し、「本質が十分に伝わっていなかった」と釈明したという。

 このタミフル発言の一番の問題は、タミフル服用後に行動の異常をきたし交通事故や転落で亡くなられた方への配慮が足りなかったことにあると思う。タミフルをめぐっては、このほか、副作用を検討する厚労省調査会の委員の一部が当該製薬会社と関係があったことを理由に辞退するなどのニュールが伝えられている。

 この問題についてはいろいろな議論があるようだが、一般論として、どのような薬にも副作用がある。けっきょくのところ、それを用いることによってどれだけの命が助かるかというメリットと、副作用はどれほど重大かというデメリットを天秤にかけて、判断するほかはないと思う。

 危険性が少しでもあるから禁止してしまえ、という主張が成り立つなら、
  • 自動車は走る凶器である。即刻禁止すべきだ。
  • アルコールは種々の幻覚をもたらし、異常行動や事故の原因にもなるので、即刻禁止すべきだ。
という主張も同程度に成り立つように思う。

 また、副作用といっても、すべての人々に生じる場合と、特異な体質や特殊な状況(若年齢、妊娠、糖尿病など)に限って顕著に表れる場合がある。知事は「タミフルと異常行動についての因果関係は科学的に実証されていない」と謝罪されたようだが、検討すべき課題は、普遍的な因果関係があるかどうかではなく、どういう状況のもとではそれが起こりやすいかということの解明にあると思う。インフルエンザにかかると、薬を飲まなくても、異常な行動が起こりやすくなることは事実であろう。このこともきっちり解明しておく必要がある。

 あと、きわめて特異な例であったとしても、副作用の可能性が報告されているのであれば、そのことを患者や家族にきっちりと伝え、万が一服用後に異常行動が起こっても重大事故につながらないように適切に対処しておく必要がある。想定されている新型インフルエンザの犠牲者を少しでも減らすための最善の策は何か、という全体的・中長期的な視点で考えていかなければならない。

【思ったこと】
_70402(月)[心理]心理療法におけるエビデンスとナラティヴ(9)能智氏、武藤氏、松見氏の話題提供(3)結局、セラピーの効果とは何なのか?

 3月21日に立命館大学衣笠キャンパスで開催された特別公開シンポジウム:

心理療法におけるエビデンスとナラティヴ:招待講演とシンポジウム

の感想の9回目。

 シンポ4番目は、松見淳子氏による

●EBP(Evidence-Based Practice) の今日的意味と展望

というタイトルの話題提供であった。

 松見氏は、エビデンスとは何かについて、主として欧米で行われてきた議論を分かりやすく紹介された。

 松見氏によれば、認知行動療法の世界で「Evidence-Based」が口にされるようになったのは、どうやら、2004年開催のWorld Congress Behavioral and Cognitive Therapies 2004(神戸市)の頃からであったようだ。また、Evidence-Basedについて最も詳しく書かれた本としては、Roth & Fonagy (2006) の“Effectiveness of Psychotherapy”が挙げられるという。

 また、メタ分析によれば、どのような療法を受けたかという内容にかかわらず、心理療法を受けた人は、placebo(プラシーボ、プラセボ)、あるいは何も受けなかった人たちに比べて統計的に有意に恩恵を受けていることが分かったという。但し、placebo群がどういう「偽処置」を受けていたのか、単に、同時間、同程度の対人接触があったということなのか、占い師や民間療法家の相談を受けた場合はplaceboに含めているのかは、聞き逃してしまった。McLeod氏が「療法の中味ではなく、人のほうが重要」と言っておられたことと考え合わせると、どうやら、来談者の相談を真摯に受け止め、親身になって問題解決に取り組んでくれる療法家であれば、流儀にかかわらず一定以上の効果をあげているようにも思える。であるなら、療法家個人から切り離した、技法上の有効性だけを比較してもあまり意味がないことになる。ゼッタイに守るべき原則をいくつか決めておいて、あとはクライエント側の自由選択に委ねてもかまわないようにも思えてくる。




 3月28日の日記でもMcLeod氏のご発言として言及したが、セラピー終了後に完治したクライエントに行った聞き取り調査によれば、クライエントはしばしば、セラピー開始時に約束された効果とは違った効果を口にすることがあるらしい。セラピー開始時の達成目標は「慢性不安の解消」が目的だったはずなのに、完治時に報告された成果は「人を信じられるようになってよかった」に変化している場合などである(←あくまで、長谷川が思いついた仮想事例)。

 人間行動において、何かを行うこととその結果によって何かが変わるという関係は、まさに行動随伴性そのものであり、一回限りの「因果」関係に収束するものではない。新たな働きかけや新たな結果の螺旋状の変化をもたらすものなのである。その断片だけに注目して「○○は効果があるか」と検討したところで、全体的な効果の検証を行ったことにはならない。こちらの小論でも強調したように、もっと全人的、長期的な視点でセラピーの効用をとらえていく必要があるように思う。Evidence-Basedが問題となってくるのは、あくまで急性期における治療方略の選択、あるいは、公的な補助の妥当性を検証するような場合に限られてくるのではないだろうか。

 ということで、今回の講演・シンポの参加感想はひとまず終了とさせていただく。なお、同種のシンポ企画は今後も予定されているらしい。できる限り参加したいと思っている。