じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]
 岡大の北福利施設(マスカットユニオン)の南側に写真のような休憩所が突然出現。このエリアは緑地ではあったが、湿気が多く、シートを広げてお弁当を食べる場所としては適していなかった。しかし、従来は学部ごとに管理区域が分かれていて、全学的な予算で工事を行うことが難しいと聞いていた。どうやら、法人化後の一元化のもとで、事務主導で実現した模様。


3月30日(金)

【ちょっと思ったこと】

タッピングタッチによる「心のケア」

 3月31日朝のNHKニュースの中で、災害避難所などでタッピングタッチを取り入れた「心のケア」を取り入れる試みが紹介されていた。番組では、三重大学の中川教授の活動が紹介されていたが、ネットで検索したところでは、すでにこういう団体が設立され活動が行われていることが分かった。

 番組を拝見した限りは、「システマティックな肩たたき」を通じた交流による「心のケア」のようにも見えた。じっさい、生理的効果もあるらしい。

 以上のこと自体はたいへん結構だが、避難所での「心のケア」という言葉は、番組で安易に使ってほしくないと思う。長期間の避難所生活はさまざまなストレスをもたらすが、それは決して「こころ」の内部に起因するものではない。まずは、(体育館等であれば)仕切りを作るとか、旅館などの個室を借り上げて他者の目を気にしないで済むような生活を保障することが第一。次には、どんなことでもいいから復旧活動に貢献できるような仕事に能動的に参加する機会を広げていくことである。

 プライバシーに配慮せず長期間待機させるだけのストレスフルな環境を放置した状態のもとで「心のケア」だけで問題を解消しようとしても限界がある。

【思ったこと】
_70330(金)[心理]心理療法におけるエビデンスとナラティヴ(6)下山晴彦氏の話題提供(2)日本のサイコセラピーの特異性

 3月21日に立命館大学衣笠キャンパスで開催された特別公開シンポジウム:

心理療法におけるエビデンスとナラティヴ:招待講演とシンポジウム

の感想の6回目。

 話題提供の後半で下山氏は、

●西洋の心理援助領域ではEBAやCBTが重視されており、日本人は西洋の流行を取り入れるのに熱心なはずなのに、日本の心理援助領域でこれらに関心を示す人が少ないのはなぜか?

という3番目のリサーチクエスチョン(←いずれも長谷川による要約のため、真意をとらえていない恐れあり)について、いくつかのお考えを述べられた。

 精神分析は宗教とメディカルサイエンスの中間的な位置にある一方、認知行動療法(CBT)はModernの枠組みの中でメディカルサイエンスや個性を尊重・推進するものとして位置づけられる。にも関わらず日本では、ユングを含めて、modern以前のサイコセラピーが強い影響力を持っている。少なくとも商工業では近代化しているはずの日本がそのようになっているのは何故だろうか?というのが3番目のリサーチクエスチョンであった。

 これに関しては、日本社会は表面的には近代化しているが、精神的宗教的な面では以前としてプレモダンであり、例えば京都では物語が共有されているというようなお話であったと理解した。




 今回のシンポは京都で行われたため、複数の話者が、京都市内の街並みをモダンとプレモダンの混在の例として取り上げておられるようだったが、うーむどうかなあ、15年間京都に住んだ経験をもつ私の目には、今の街並みはモダンとプレモダンの混在ではなく、あくまでモダンによる侵略と景観破壊であるように写る。

 下山氏はさらに、「Contextualism」という視点を強調された。これは、集団主義や個人主義とは別。日本人はコンテクストに沿って物事を判断したり、自分の属する集団のコンテクストの中では、個人が表に出ないように抑制するというもの。そしてコンテクストはナラティヴだけでなく集団成因間のインタラクションによっても構成される。サイコセラピーはストーリーとしてのナラティブの中味を分析、いっぽう認知行動療法や家族療法はナラティヴ自体の機能を分析するものであるというのが結論であると理解した。




 元の話題に戻るが、日本でなぜEBAやCBTが主流にならないのかについては、複合的な要因があると思う。そもそも、サイコセラピー流派が流行るかどうかは、学術論争だけで決着するものではない。ビデオはVHSかβか、パソコンはWindowsかマックか、...というように消費者の選択のもとでどちらかが優性になっていくケースは多い。ユング心理学などは、啓蒙普及活動に成功した例といってよいかと思う。

 このほか、日本人に「無意識」や「潜在意識」といった「神秘」性を好む傾向があることは確かであるとも思う。これはたぶん、「アーラヤ識」や「マナ識」といった伝統的な意識観と共通するところがあるために違いない。

 また、日本の大学では一昔前までは、後任採用にあたって主任教授の意向が強く働くという悪弊がまかり通っており、公募を行わず、電報1本で赴任を要請されたなどという話もしばしば耳にした。そういう中では、1つの流派が主流となると、それを覆すような新たな流派はなかなか入り込めず、結果的に保守的にならざるをえないという傾向もあるように思われる。もっともこれは一昔前までのこと。現在では公募が常識であり、透明性の高い公正な採用選考が行われるようになっているはずだ。


 次回に続く。