じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



3月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真]
上空に寒気が残っていたせいだろうか、岡山では3月23日、日没直後の夕空に美しい飛行機雲が見えた。オーロラは彗星は滅多に見られない、といった観念的な価値づけをせずに、ありのままに眺めるなら、その耀きとスケールの大きさは、オーロラや、マクノート彗星を凌ぐといっても過言ではないだろう。『銀河鉄道999』のトレーダー分岐点かも。



3月23日(金)

【思ったこと】
_70323(金)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(13)構造構成主義の医療領域への展開(3)井原成男氏と池田清彦氏による指定討論/まとめ

 3月11日に早稲田大学で開催された

第一回構造構成主義シンポジウム:わかりあうための思想をわかちあうためのシンポジウム

の感想の12回目。本日をもって最終回としたい。

 第三部のパネルディスカッション「構造構成主義の医療領域への展開」では、3つの話題提供に続いて、井原成男氏と池田清彦氏による指定討論が行われた。

 まず井原氏は、「関心相関性をインスツールする」という京極氏の着想を評価したうえで、「対象化」と「客観化」の違いについて御指摘をされた。このほか、斎藤氏の話題提供に対して「セルフがあるからこそ」、高木氏の話題提供に対しては、典型論では量的なものと質的なものは対立しない、構造構成主義は何のためにやるのか(→そこにいる人の幸せのため?)といったことについて種々の御指摘をされた(←長谷川の記憶に基づくため、かなりあやふや)。

 いっぽう池田氏は、個々の話題提供の内容にはあまり言及されず(←第三部の開始時にはお姿が見えなかったようで「失踪」説も出たほど)、第三部のテーマである「医療」に関して、「医療はないほうがいい。居なくなると困るはずの一次産業従事者の収入が低いのは問題だ」などと持論を述べられた。パネルディスカッションの趣旨からは脱線しているようにも思えたが、この御指摘自体には私も同感である。

 そもそも、高齢者の生きがい論などは、医療とは別の世界で構築されるべきものだ。病気や死を悪と考える限りは、いかによく生き終えるかというような問題を前向きに論じることはできない。理想の高齢者福祉施設とは医師の居ない施設であり、緩和ケア施設でも、医師よりは、よりよく生き終えることをサポートしてくれるようなセラピスト、僧侶や牧師のほうが必要であるように思う。





 指定討論に対する回答の中で、斎藤氏は、outcomeの研究よりも、quality improvementの研究のほうが重要だというようなことを言われた(←長谷川の聞き取りのため不確か)。この考え方には私も同感である。そもそも一連の行動は単一の効果で評価されるべきではない。3/21に立命館大学で行われた別のシンポでも

●サイコセラピーが完了した人々に、どういう成果があったのかを尋ねたところ、彼らが口にした成果は、「初回の来談時に訴えていた症状の消失」ではなく全く別の種類の成果であった

などという指摘があった。例えば(←あくまで長谷川が思いついた例)、不眠症が治った人に治療の成果を尋ねても、「不眠症が治ったことが成果である」という答えが返ってくるとは限らない。「食欲が出た」、「日々の思考がうまく働くようになった」と答える人もいるだろうし、中には、「セラピストと知り合いになれてよかった」「周囲のサポーターとの交流を通して、人間関係の大切さを知った」と答える人も出てくるかもしれない。エビデンス重視とか言ったところで、何も問題解決という目先の成果だけで測れるものではないことに留意する必要があると思う。




 もう1つ、フロアから、部分か全体か、という認識論上の問題についての質問があった。登壇者の方々も答えておられたが、我々の認識は常に部分的である。全体をまるごと知るすべは持っていないし、現象のすべてを記述することは困難【池田氏】。統合的な認識というのは、ミカンとリンゴを果物として認識することではなく、ミカンと果物を統合するというようにパラドックスを内包しており、形式論理学では片付かない問題を含む【斎藤氏】。というお考えは、それぞれその通りだと思う。

 とはいえ我々は、部分を知ることから、未知の別の部分を予測することはできることも確かである。少々脱線するが、シャーロックホームズの小説の第一作『緋色の研究』の中には
“From a drop of water,” said the writer, “a logician could infer the possibility of an Atlantic or a Niagara without having seen or heard of one or the other. So all life is a great chain, the nature of which is known whenever we are shown a single link of it.
論理家というものは、ただ一滴の水を見ただけで、大西洋やナイアガラの滝を実際に知らなくても、それが存在しうることを予言できる。同様に、人生もまた大きな一連の鎖であり、我々はその環の一つを究明すれば、人生の本質を把握できる。
というくだりがある(英文中で「the writer」とあるのは、ワトソンとホームズの会話の中で、ワトソンがたまたま見つけた本(←じつはホームズの著作だった)の記述について言及していたため)。

 この引用ほどではないにせよ、我々は、推論によって、既知の現象から未知の別の現象を予測することはできる。但しそれは、部分から部分を知るのであって、部分から全体を知ることではない。




 シンポのまとめの中で西條氏は、21世紀は民主主義にかわって構造構成主義の時代になる、というようなスケールの大きな展望を語っておられたが、うーむどうかなあ、ある主義主張が正しかったとしても、それが、ある時代のある社会に広く普及するかどうかは別問題だと思う。

 確かに今は「民主主義」の時代であるが、一般大衆の多くは、決して、民主主義思想を学んで共鳴し、それが正しいとの信念に基づいて行動しているわけではない。西條氏ご自身も「主義というより制度だ」と言っておられたように、実際には、おおむね物理的衝突を回避し、専制政治の防止装置としてそれなりに機能し、そのもとでまずまずの生活が保障されているからこそ、民主(主義)制度なるものが存続しているのである。

 最近、構造構成主義に関する本が次から次へと出版されているようだが、仮に一大ブームが起こったとしても、観念だけで社会を変えることはできない。忙しい世界にあっては、よほどの必要に迫られるか、もしくは何らかの事情でとつぜんヒマができたか、というようなことが無い限りは、娯楽にもならない本をわざわざを読むことはない。

 よく言われる「モダン」、「ポストモダン」にしたって、一部のインテリが口にしているだけであって、一般大衆はそれとは無縁の世界の中で生きているだけなのかもしれない。ということもあり、今後は、ここで披露された考え方をいかなる方法でいかに普及させるかが課題である、というように思われた。