じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]

 大学構内の辛夷の蕾。もうすぐ開花。


3月14日(水)

【ちょっと思ったこと】

航空機のリスク

 このところ、全日空ボンバルディアDHC8−400型機の胴体着陸(3月13日)や、ガルーダ・インドネシア航空のボーイング737型機の着陸失敗・炎上(3月7日)というように、航空機事故のニュースが大きく取り上げられている。航空機の事故は恐怖を伴い、そのぶん多くの人々の関心を集めやすいように思う。

 もっとも、航空機が危険な乗り物であるとは直ちには言えない。2月18日に大阪で起こったスキーバス橋脚衝突事故や、2005年4月25日に起こったJR福知山線脱線事故のように、バスや鉄道でもリスクは大きい。手元に正確な資料が無いので断定はできないが、国内線航空機搭乗中に事故で死亡する確率は、バス(特に観光バス)や鉄道乗車中に事故で死亡する確率よりも遙かに小さいはずである。

 にもかかわらず航空機を怖いと感じるのはなぜだろうか。最大の理由は、「自力で自分を救うことができない」つまり、能動的な対処行動の機会が殆ど奪われていて、機長に全面的に命を預けるほかはないという点にあるのではないかと思う。バスや鉄道の場合は地を這ってでも何とか生き延びられそうに思ってしまう。しかし、空の上ではどうしようもない。今回のボンバルディア機の場合でも、胴体着陸決行の前には燃料を減らすために上空を旋回したというが、その時の恐怖は想像を絶するものであったと思う。

 航空機に乗るたびに救命胴衣着用と酸素マスク説明のアナウンスがあるが、救命胴衣をつけて助かったというような話は全く聞かない。いっそのこと、救命胴衣の代わりにパラシュートを装備すればよいと思ってみたりするが、上空の気圧の低さによるドア開閉の困難、高度の問題、乗客の事情などを考えると、パラシュートを使って脱出するという方法はやはり難しいのかもしれない。

【思ったこと】
_70314(水)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(4)養老孟司氏の特別講演(2)「違い」をめぐる諸問題

 3月11日に早稲田大学で開催された

第一回構造構成主義シンポジウム:わかりあうための思想をわかちあうためのシンポジウム

の感想の3回目。

 次に養老氏は、般若心経にある、

色受想行識

に言及された。この話題は「無思想の意識化」のテーマに沿って展開されていると思ったのだが、後半は「行」「識」について

学校の階段の一段一段の大きさをいろいろに変えれば、学生は注意して歩くようになり結果的に頭を使うようになる。皇居の周りをジョギングしているような人は、走り方が単調で、頭を使っているとは言えない。

というような持論を展開された。さらに、新しい運動をするというのは新しい運動制御モデルを使うことである点、感覚は違いがあると初めて生じるものである点などについていくつかの例を挙げられた。

 この中で興味深かったのは、

「シロ」と名付けられた犬に対して、飼い主の家族はみな「シロ」と呼ぶが、犬は、家族全員が違う名前で自分を呼んでいると思っている

というような例である(長谷川のメモに基づく)。しかし、他のいくつかの事例もそうだが、しょせん、「同じ」か「違う」かということは事物の本質ではなく、刺激性制御における般化と分化の境界の問題にすぎないと私は考えている。

 要するに、何かと何かを「同じ」と見なすか、「違う」と見なすかは、人間や動物の都合によって決まる。例えば、2枚の10円玉は、貨幣として使われる時には「同じ」10円玉であるが、コイン集めのマニアにとっては希少価値が著しく異なるかもしれない。いっぽう理科の実験では10円玉も銅板も同じ「銅」として扱われる。

 構造構成主義との関連で言えば養老氏はおそらく

●「同じ」と思われていることにも違いがある。違いに気づくことが、わかりあいの第一歩

というようなことを指摘されたかったのだと思う。

 講演の中でも言及されていたが、そもそも「公平客観中立」の視点などというのはあり得ない。講演会場をライブ中継することはいっけんその様子を「公平客観中立」に伝えているように思われるが、じつはカメラの映像は個人の視線の1つにすぎない。ずっと同じ家で暮らしている夫婦であっても、向かい合うというだけで視線が異なるということだ。

 この後者の例はまことにもっともだと思う。何十年も連れ添った夫婦は同じ環境を共有しているように見えるが、じつは、夫にとっては「妻の居る家」、妻にとっては「夫の居る家」、第三者から見れば「夫婦の住む家」でありこれだけでも決定的に違っている。事実に基づく研究と言っても、事実を数値化し、その一部を取り上げて記述するプロセスには個人の目が関与する。まずは「違いありき」であり、それらをどうカテゴライズし同一視していくかが問題となる。


 次回に続く。