じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]
楽天版じぶん更新日記(1/17付)にソシンロウバイの花の写真を掲載したが、そのすぐ横の座主川では、たくさんの黒い鯉が泳いでいた。このあたりは流れが速く、24時間休まずに泳ぎ続けないと下流のほうに流されていってしまう。一生泳ぎ続けるというのはずいぶん大変なことのようにも見えるが、おそらく、我々が呼吸をしたり心臓を動かしたりするの同じ程度の労力で済んでいるのだろう。



1月17日(水)

【思ったこと】
_70117(水)[心理]新年早々に「あの世」を考える(8)能動的世捨人

ひろさちや氏の

●仏教に学ぶ老い方・死に方(新潮社、ISBN4-10-603542-1)

の感想の8回目(実質7回目)。

 第4章“「夜逃げ」のすすめ”の冒頭で、ひろさちや氏は、世捨て人には「世を捨てた人」と「世に捨てられた人」の2種類があり、我々は後者になることを怖れていると説いている。「生涯現役」主義は、世に捨てられないよう、いつまでも世の中にしがみつくという発想であるという。

 ここでいう「世捨て」というのは必ずしも世間から隠遁することと同義ではない。要するに、「世間の物差し」つまり、グローバル化しつつある現代社会の商品価値の物差しで自分を測らないようにしよう、ということであるようだ。この点は十分に同意できる。

 では、我々は商品価値に代わってどういう物差しを持つことができるのだろうか。それこそが「あの世の物差し」につながるわけだが、ひとさちや氏はその前に、「三つの無関心」:
  1. 世間に対する無関心
  2. 道徳に対する無関心
  3. 他人に対する無関心
を提唱されている。

 このうち「道徳に対する無関心」というのは、ゴミのポイ捨て、他者への迷惑、犯罪何でもありという意味に誤解されそうだが、ひとさちや氏に言わせれば、道徳というのは要するに「強者が弱者を束縛する道具」であり、時代によって変わる性質をもっている。老人は、道徳ではなく永遠の真理である宗教を学べというわけだ。




 以上までの部分についての感想としては、とにかく、定年で現役を退いた老人が「三つの無関心」を実践され能動的な世捨て人になるという道を進むことは、それでよいと思う。もっとも、能動的世捨て人といえども、毎日ご飯は食べるし、寝たきりになれば他者に世話をしてもらうほかはない。それなりに財力が無ければ、年をとっても、ワーキングプアとして必死に生きていくほかはないだろう。リッチな日本といえども、少子高齢化が進むなかで、能動的世捨て人になれる人が何%程度であるのかははなはだ疑問だ。

 ま、そうは言っても、私の「物差し」なんぞは、もとから、商品価値の物差しとは大きくかけ離れている。テレビは食事時しか視ないし、大河ドラマや紅白、その他、芸能界の話題などには全く無関心。稀に夫婦で連れ立ってデパートなど行っても、興味を持てるような売り場は全くない。売り場の隅のベンチで妻が戻ってくるのを退屈しながら待つのみである。忘年会や懇親会などは極力避けている。とはいえ、私は別段「あの世の物差し」を持っているわけではない。このあたりは第6章あたりで、あらためて取り上げることにしたい。


 次回に続く。